藤井誠二が書いたのでなければ、私はこの本を手に取らなかっただろう。「少年A」というキーワードはこのところ食傷気味で、もういいかげんうんざりしていたのだ。
2015年の夏、突然出版された『絶歌』という手記も、ノンフィクションを主に書評している私は読まないわけにはいかなかったし、誰かに聞かれれば内容だけでなく、構成力や文章の巧拙についても語らなければならなかった。本としての出来なら、悪いわけではない。でも垣間見える自己顕示欲の強さやある種の優越感、全能感みたいなものが堪らなくイヤだった。
だが「元少年A」を英雄視する少年少女は後を絶たない。凶悪で快楽的な少年犯罪が起こるたび、マスコミによって酒鬼薔薇事件との比較が行われる。事件ごとにルポルタージュが出版されるのは仕方ないにしても、被害者の気持ちを考えるといたたまれないのだ。
藤井誠二という書き手は違う。彼は1980年代から一貫して少年犯罪、あるいは少年心理について書き続けている。私が最初に彼の本を読んだのは女子高校生コンクリート詰め殺人事件を取材した『少年の街』だったと記憶している。加害者、被害者ともに年齢が近い藤井という取材者に対し、心を許す者も多かったのだろう。100人あまりに取材を行ったこの本は本当に衝撃的だった。
その後、事件そのものを追うことは当然として、被害者遺族の人権についていち早く言及し、少年法の改正にも一翼を担ってきた。加害者の人権や更生ばかりが厚く手当され、蔑にされていた被害者の家族たちの救いとなってきたのだ。今までも『わが子を被害者にも加害者にもしない』や『少年犯罪被害者遺族』『殺された側の論理 -犯罪被害者遺族が望む「罰」と「権利」』などの著作がある。孤立無援に戦わなくてはならない被害者遺族の姿は、藤井の手によって明らかにされてきた。
その藤井誠二が怒っている。少年であるがゆえ「A」という仮名によって顔も人格もわからないまま少年の処遇が決定し、「更生」という錦の御旗のもとに隔離され、一定の年月の教育がされる。もちろん少年心理学のプロたちが、威信をかけて教育を施しているのだろうが、きちんと更生された実態は被害者家族に知らされない。ここでもまた蔑にされたままなのだ。
それだけではない。加害者の「逃げ得」の実態には唖然とさせられる。少年審判が下り、その後民事訴訟によって損害賠償金が設定されても、まともに払われることは少ないという。複数犯の場合、賠償金の割り当てを不服として、そこでまた争いが起こってしまう。それが解決されない限り、賠償金は1円も支払われない。
少年であるがゆえに守られるものがあるなら、監督者として彼らの保護者は賠償しなければならないはずだ。驚くことに支払われない場合は、被害者が直接督促しなければならない。その上、支払期限には時効があり、10年バっくれれば判決の効力は無くなってしまうのだ。事件を風化させないために、被害者家族は、加害者およびその家族に連絡を取り、抗議し続けなけれならないのは、どう考えてもおかしい。藤井のいうように、判決で決まった賠償金は国が肩代わりして被害者に支払い、加害者には国が督促するシステムを作るべきだろう。
本書には心が痛くなったり呆れ果てたりする事例がいくつも紹介されている。
息子を殺された女性が少年院の見学をした時のこと。グランドでソフトボールに喚声を上げてはしゃぐ少年たちの中に犯人がいることの悔しさ。
貧しくて賠償金を払えないと値切りながら、戻ってきた息子を大学に入れる親。
殺人事件を起こしながら「一度の過ちで、息子の人生を棒に振りたくはない」と言い放った親。
夜に連絡もなく突然に被害者宅を訪れ、土下座して謝罪したことですべてが終わったと思い込んでいる加害者。
「会って謝罪をしたい」といいながら、「食事に行こう」「カラオケに行こう」と被害者の母を誘う加害者の父親。
自分の事件を小説にしたい。面白い小説にしたいからふざけた小説にするつもりだ、と手紙をよこした加害者の少年。
中には本当にやったことを悔いて更生し、毎月の賠償金を払う青年もいるにはいるが、ごく少数派であるらしい。被害者遺族は加害者を許すことは一生出来ないだろうが、誠意をもって向き合ってほしいと思うのはあたりまえのことだろう。
少年法は2001年以降、4度の改正を行い被害者家族の願いを少しずつ受け入れてきた。被害者の「知る権利」、あまりにも軽かった「罰」、「少年」の年齢の引き下げ、少年審判への被害者家族の参加、厳罰化など確かに司法は動いている。
誰からの助けも得られず、子供を殺され慟哭している親たちに、藤井は手を差し伸べる。30年に及ぶ取材経験をしても、無力感に苛まれるときがあるようだ。彼の手助けがどんなに被害者家族には心強かっただろうか。
日本では後手後手にまわっている賠償金支払い問題など、法律として作るべきことはたくさん残っている。あなたの子どもを被害者にも加害者にもしないために、国が、大人がなすべきことをあらためて考えなくてはならない。
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