第三帝国の終焉が近づきつつある、1944年11月26日。フランスのストラスブールでは連合軍とドイツ軍が激しい砲火をまみえていた。そんな戦況の中、都市の中心にある豪華なアパルトマンの一室では、数人の科学者が一心不乱に書類を読み漁っていた。アメリカ人の粒子物理学者ゴーズミットが率いるこの特殊チームはアメリカよりも先進的な研究成果を持っていると考えられていたナチの科学と最新兵器を狩る事を目的としたチームだ。
彼らが捜索している部屋の主はドイツのウイルス学者オイゲン・ハーゲンという男で、ナチの重要な細菌兵器開発者の一人と目されていた人物だ。ここで彼は衝撃的な手紙を見つける。それはナチの医師らが健康な人間を使って生体実験を行っていた事を示す手紙だ。まさに、この日、この瞬間、彼らの手によって、ナチの科学者たちが行っていた非人道的で邪悪な姿が第三帝国という漆黒の闇の中から引きずりだされたのだ。
この事実は世界の科学者たちに衝撃を与えるものだった。ゴーズミットの知るオイゲン・ハーゲンは、人々を助けるために身を捧げた穏やかな性格の医師で、世界初の黄熱病ワクチンの開発にも貢献し、1937年にはノーベル賞候補にも選ばれた、ドイツ屈指の医学博士であったのだ。そんな彼が毒性の高いワクチンを使った人体実験に関わっていたのである。
世界で起こる様々な出来事の中には驚きを禁じ得ないことがしばしばある。本書もそんな出来事のひとつであろう。この本のタイトルにもなっている〈ペーパークリップ作戦〉とはアメリカが極秘裏にナチの科学者をスカウトし雇用した諜報作戦である。1600人を超える医師、科学者、技師などが、戦中に行った残虐行為の罪を問われることなくアメリカによって保護され、高い賃金と自由な暮らしを手に入れた。アメリカの市民権を手に入れた者もおり、そのなかの一部の者は、アメリカで大きな成功を手にする。
例えばクルト・デーブスは可動式発射台等を監督したV兵器の技師で、熱烈なナチ信者だ。彼は同僚の一人が反ナチス的な言動をとっていることをゲシュタポに通報し引き渡している。戦後、彼はロケット技師としてアメリカに雇われ、宇宙開発に多大な貢献を果たし、ケネディー宇宙センターの初代所長に就任している。現在もクルト・H・デーブス賞という彼の名前に由来する賞が存在し、宇宙開発に貢献した人々に与えられているという。
同じくV兵器の開発者でV2ロケットの生みの親でもあるヴェルナー・フォン・ブラウンはアポロ計画の立役者のひとりである。ペーパークリップ科学者とともにNASAの職員となり、サターンVロケットの開発にまい進する。彼の先進性と功績は宇宙開発に沸くアメリカでおおいに持てはやされ、著作などで莫大な財産を築く。
セレブの仲間入りを果たしたフォン・ブラウンだが、彼もまた積極的なナチの信奉者であり、SSの将校という過去を持ちヒムラーとの関係も深い。この2人を含めた多くのロケット科学者と技師が戦中はドーラ=ノルトハウゼンという地下のロケット組立工場に勤務していた。
この秘密工場では、多くのユダヤ人などの奴隷労働者が働いたという。彼らの置かれた環境は極めて劣悪で数万人の奴隷労働者がこの地下工場で死亡している。見せしめの公開処刑も度々、行われていたという。当然この事実を彼らが知っていたはずだ。しかし、渡米後のフォン・ブラウンはナチ支持者だったことを否定し、詳細な注意を払いながら自身が反ナチであったという神話を創りだしていく。
ドイツの先進的な科学技術を求めアメリカ軍により行われたこの作戦は、ペンタゴンの奥深くに存在する統合諜報対象局(JIOA)によって統括されていた。JIOAは統合情報委員会(JIC)の小委員会であり、統合参謀本部(JCS)に国家安全保障に関する情報を提供する機関であったという。
ドイツ崩壊後にJICは新たな脅威をソ連とし、JCSに警告を発する。「ソ連は近い将来、欧米諸国との公然の衝突を避けようとする。しかし、それは戦力の回復のためであり、1952年までには総力戦に参加する準備が整うであろう」と。
こうした黙示禄的戦争への恐怖がJIOAの行うペーパークリップ作戦に大きな力をあたえていた。ソ連もまた多くのドイツ人科学者を母国に強制的に連れ帰っており、次の大戦では細菌兵器などの非通常兵器が容赦なく使われるであろうという軍の考えが、多くの残虐行為に加担したナチの科学者との秘密契約にいたる基になっていた。もっとも、この作戦には「ナチの信者でないこと」などの条件が付いていたのだが、この条件が守られることはなかった。なによりもソ連にこれ以上、重要な科学者を連れていかれてはならない、とJIOAは考えていたのだ。
ただ、戦後、様々な残虐行為が明るみになる中で、ドイツの化学者たちを雇用しアメリカのビザを発給する事に、軍や政府関係者の間で抵抗感を持つものも多くいた。そのため、科学者を国内に「輸入」する計画は遅々として進まなかった。その状況に弾みをつけたひとつに、商務長官ヘンリー・ウォレスの賛成があったという。ウォレスはドイツの科学技術が流入することによりアメリカ人の科学者や技師などが刺激を受け、小さな会社を起業しアメリカの戦後の復興と繁栄の礎になる、という考えの下にこの作戦に賛意を表す。軍事面以外にもナチの科学者の存在価値が認知されたのだ。これは作戦にとって大きな一歩だったという。
それでも、JIOAの前に国務省のアチソンとクラウスという二人の男が立ちふさがる。彼らは移民に対するビザ発給権を巡り、JIOAと激しい攻防を繰り広げることになる。またこのような状況に一部のマスコミやユダヤ人団体が抗議活動をとり始める。アメリカの化学者たちの間にも動揺が広がる。ナチスの迫害から逃れ渡米したアインシュタインらも抗議活動を始めることになる。
本書はアメリカの軍事史、医学史、宇宙開拓史において、ナチの科学者たちがいかに大きな影響力を振るったかという歴史的な側面を浮き彫りにするとともに、科学者はいかにあるべきなのか。また、国家が繁栄という目的を達成するためならば、どのような行為をとっても許されるのだろうか、という問題を私たちに突きつける。
文字数の関係で触れる事が出来なかったが、他にも様々なナチ科学者が登場し、戦中に行った残虐行為を自己正当化していく姿に多くの読者が嫌悪感を覚えるであろう。と、同時に彼らがアメリカという国の繁栄に貢献し、その化学技術が今の私たちの暮しの礎を築いているという事実に愕然とするはずだ。科学発展と繁栄のためには、我々は悪魔とも契約を結ぶべきなのだろうか。このペーパークリップ作戦に関する資料の多くは未だに機密指定解除されていない。秘密の全てが明るみになったとき、私たちはその答えを手に入れる事が出来るのであろうか。本書は間違いなく、読者の心に引っ掛かる棘を持った本であろう。