2011年3月以降、絆やつながりが大切だと、耳にタコができるほど聞いてきた。煩わしいと思う人もいるし、いやそれこそ美しいと考える人もいる。どちらの気持ちも幾分か持つグレーな人が大半だと思うのだが、さて昔の人は「つながり」をどう考えていたのだろうか?
Religio(レリギオ)はReligion(宗教)の語源になったラテン語であり、「つながり」を意味する。しかし、紀元前に活動した劇作家の作品の世俗的な場面で、”Religio”は、ためらいや不安という主観的な感情を表現することに使われていた。不安やためらいは死への怖れに起因し、その怖れは生活全般の指針となるモラルの原理が根底にあった。
キリスト教以前の古代ローマでは、”Religio”という言葉は人間の血縁関係や婚姻関係といった結びつきを設定し、再設定する「行為」に関わっていたと著者は考える。行為はつまり儀式であり、信仰ではない。現在の宗教に連なる意味は、今日でも聖人として崇敬されるアウグスティヌスが、”Religio”を「神への結びつき」という意味として定義してからのことだ。こちらは神への信仰であり、語源の移り変わりから、宗教が儀式中心から信仰中心のあり方に変貌を遂げた歴史的推移が読み取れる。
すでに信仰としての宗教が浸透していた17世紀に哲学者のジャン・ロックが宗教を「精神がない的にそして完全に納得するという点にあり、信じることがなければ信仰は信仰ではない」という見解をいち早く示したが、この見解に対してフランスの宗教哲学者は印象深い感想を残している。
これはわれわれにとってはとても陳腐な考え方だが、ギリシアの思想家やケチャ族の祭司がこれを聞いても、おそらく何一つ理解できなかっただろう
つまり、古代には宗教は血縁関係や婚姻関係や定住する場所や耕作の行為に、あるいは、人間相互の絆を創出する諸々の具体的な行為のうちにあり、精神の内面という抽象的な場所に宗教は存在していなかったのである。古代の「つながり」は精神的なものではなく、現場・現物・現実にある具体的なものであった。
そして、人間は生命として死ぬ運命であり、そのため、この地上において滅びることのない永続的な何かを創造しようとしてきた。死の恐怖を打ち消すために、過剰とも見える儀式が執り行われた。これは歴史の中で、連綿と続く行為である。行為としての宗教はその人間の不死性に対する欲求の表れであった。
しかし、その過程で自らの信仰のために歴史が書き換えられ、新たな再解釈が生み出された。キリスト教以後、原始的な行為や儀式はその存在感を薄め、行為から信仰へと宗教のあり方が変遷していった。
そして、宗教は公的領域での没落に伴い、私的領域への伸張を行ってきた。集団的行為から個人の内面へと成立する場所を変え、それは祭祀から信仰へと形を変えてきた。この大局な流れは従来から言われてきたことだが、著者はハンナ・アーレント『人間の条件』で提案された「永遠と不死」という歴史理解の枠組みを持ち出し、宗教の新たな見方を展開していく。残念ながら、こちらで著者の構想は書ききれない。
著者は構想を語る一方で、古代における宗教の変遷に焦点をあて、トルコのチュタル・ヒュユク遺跡、古代イスラエル、ギリシア世界を細やかに描いていく。チュタル・ヒュユクでは狩猟文化から牧畜文化への移り変わりが確認できる遺跡で、そこでの狩猟と儀式の関係を見る。古代イスラエルでは、家族宗教からユダヤ教という一神教が生じてきた故郷喪失の歴史をたどる。多種多様で複雑多岐な宗教が見られたギリシア世界では、ポリスを取り上げディオニューソスという最もギリシア的な神と祝祭、政治の関わりを掘り下げる。
大きくとりあげられる3つの時代以外にもアフリカや南米の部族など多数の人間の儀式や祝祭を引用しているが、どれに共通するのは生へのあくなき欲求であり、死への恐怖や無意味さに抵抗するために盛大な儀式や祝祭を作り上げる人間の創造性としたたかさである。人という種族が生きるために各々の時代で編み出してきた智慧が、宗教という補助線をひくことで違った形で浮き彫りになる、そんな一冊だ。
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副読本としておすすめ。 レビュー。
副読本としておすすめ、その2。足立のレビュー。