先日、友人とカレーを食べに行った。和風の店構えに「インドカレー」の看板、だけどメニューにはパキスタンカレーと書かれている、たぶん、パキスタンカレーのお店だ。寿司屋を居抜きでそのまま使っているらしい。店内には小上がりもある。でもそんなことはどうでもいい。鮮烈なスパイス、油がたっぷり使ってあるはずなのに、後味は爽やかだ。うまい。35年生きてきたが、ジャパニーズ・カレーライス以外のカレーを食べたのは初めてであった。
大学では東洋史研究室に所属し、ついていた先生は東南アジア史がご専門、友人はインドネシア・マレー史を学び、当時付き合っていた彼氏は北インド史を学んでいたにもかかわらず、スパイスに縁のない人生を送って来た。そのことを大いに悔やんだ一食であった。なぜだろう。皆、研究旅行のお土産は煙草か茶葉かドリアンキャンディー。カレー粉であったなら、と、セットのラッシーを飲みながらずうずうしく考えた。
そんな幸せな胃を抱えて仕事に行ってみれば(本職は書店員です)、文庫の棚にこんな本があるではないか。『カレーライスと日本人』、買うしかない。帯め、卑怯なり。「カレーのルーツはインドではなかった?」「日本人のカレー観を一変させた名著」「国民食の謎に迫る食文化ミステリー」「カレーの歴史をめぐる旅」、そんなに煽られたらドキドキワクワクしてしまう。寿司屋居抜きパキスタンカレー屋に行っていなかったとしても、ノンフィクションファンとしては押さえておかなければならない基礎書のような趣である。
実際、HONZをご覧の皆さんならば、元本は既読の一冊かもしれない。本書は1989年講談社現代新書として刊行されたものに、刊行後の発見や考察を補遺として加筆した文庫版である。著者・森枝氏は、現代新書版刊行後も、種々のカレー関連本を執筆、漫画『華麗なる食卓』の監修を手掛けるなど、著名な論客である。その森枝氏の名を一躍高めたのが名著と冠される本書である。
パキスタンカレー屋で食べた「カレー」は、ジャパニーズ・カレーライスとは全然違った。とろみがない。形のある野菜は入っていない。また、友人が「カレー」と書かれたメニューから選んだものは、出されてみればおよそカレーとは思えない、肉の煮込み料理だったのである。この日本におけるカレーライスとの差異は、どのようにして生まれたのだろう。そもそも「カレー」という言葉が指す意味合いが、どうも違うように感じられる。日本におけるカレーライスは、いったいどのようなルーツを持ち、どのようにして生まれ、そして現在の形になったのだろうか。確かにこれはミステリー。この謎を、森枝氏は体当たりで解き明かしていく。
著者はまずインドに飛ぶ。日本において、最もポピュラーに「カレー発祥の地」と考えられている国だ。その「カレー発祥の地」でカレーと考えられているものは何か、探ろうというのだ。そしてわかったのは、「カレー」という言葉はインドにおける外来語であるらしいということ、インドにおける料理の大部分はスパイスの配合とすりつぶしであり、その多彩な配合を使い分けて調理するのだが、スパイスにかける手間暇に比べて、調理自体は割合に簡単なものであるということ、「カレー」と言われてインドの人々が思い浮かべるのは汁けのある料理であるということだった。(そうであるならば、研究旅行のお土産にカレー粉などということは起こりえない。と、読みながら自分の思い違いを反省してみたりもする)インドのカレーは、ルーツと言われればルーツなのかもしれないが、全く別の料理であるという感が強まった著者は、次にイギリスへ向かう。インドはスパイスを求めたヨーロッパ人たちの憧れの地。大航海時代にヒントが隠されているのではないか。さて、ここから著者は、徐々にカレーライスのルーツと変遷を解き明かし、日本での広がりを探り、カレーライス史を打ち立てていく。要約するのは簡単だが、興味関心に沿って寄り道しながらの謎ときは、知的好奇心を満足させるという意味だけでなく読み物としても、ここからが更に面白いので、ぜひ実際に読んでいただきたいと思う。
著者は、日本の文献の最古、明治5年のレシピを実際に作ってみたりする。それはなんとカエルカレー。カエル肉の入手に手間取り、材料の量が分からず仕上がりに悩み、とにかく完成させたものは案外おいしかったと書く。一体それが何なのだと突っ込みたくもなるのだが、それはそれで、料理の手法も含めてフランスや中国の文化的影響についての一考を担う材料となっている。こんな調子で、横道に逸れたようでいてそうでなく、読者は決して油断できない。
歴史を紐解くだけでなく、文化人類学的手法を使い、見事にカレーライス文化を体系的に明らかにした本書は、日本におけるそれだけでなく、インドとその周辺、イギリスの食文化にも一定の解釈を加え、論考を加えた緻密な一冊だ。ではあるが、教養新書発の軽妙な語りは読みやすく、読者を自然に引き込み離さない。しかも読者に考察の余地を残しているのがうまい。どんどん関連書籍を読みたくなる。しかし読めば読むほどお腹が空いてくるのが食文化本のつらいところ。読後はやはりカレーライスが食べたくなるので、それはどうぞご覚悟を。