『絶対に見られない世界の秘宝99』は、二度と目にすることができなくなった世界の秘宝や財宝をイラストと写真で読み解いた一冊である。どのなくしものにもそれぞれにユニークで興味深い物語があり、その核心にはどれにも共通の永遠の謎がある。連載3回目となる今回は、アステカ帝国の君主モンテスマの失われた財宝についてご紹介。
1:失われた化石 7月17日公開
2:クロムウェルの首 7月19日公開
3:モンテスマの秘宝 7月20日公開
モンテスマはアステカ帝国の君主だったが、 首都テノチティトラン(所在地は現在のメキシコ)が エルナン・コルテス率いるスペインのコンキスタドール(征服者)に侵略されて命を落とした。 血なまぐさい戦いのさなか、膨大な量の金や貴重な財宝が首都から持ち去られたと言われている。 何世紀も探されてきたが、その在りかはわかっていない。
エルナン・コルテスは1485年にスペインに生まれ、若い時に新世界に向けて旅立ち、数年間キューバに住んでいた。1519年に600人ほどのコンキスタドールの集団を従えて本土に上陸し、特定の原住民と親密になって近隣の原住民に対する敵意をあおるという戦略を使って、土地と富を増やしていった。
ある時、コルテスはアステカ帝国の君主モンテスマ2世が所有する莫大な富の噂を耳にする。モンテスマの側は、外国からの侵入者と交戦する意図はなく、贈り物を持たせた使節を送り、スペイン人に退去してもらおうと考えた。しかし、財宝に対するスペイン人の欲望はかえって燃え上がり、1519年11月にはコルテスたちコンキスタドールがテノチティトランに到着した。
コルテスの手下の中には隠されていた財宝の一部を見たという者もおり、その一人ベルナル・ディアス・デル・カスティリョは財宝のことを次のように記している。「扉が開けられたとき、コルテスと何人かの首領が先に入った。そこには凄まじい量の宝石や、金の板をはじめとするさまざまな財宝があり、みなあぜんとして声も出なかった。まだ若く、それほどの莫大な富を目にしたことがなかった私は驚嘆し、間違いなく世界にまたとない量の財宝だと思った」。
コンキスタドールはモンテスマを首都に軟禁していたが、1520年にコルテスが兵を率いてメキシコの海岸に赴く必要が生じた。スペイン人のキューバの統治者がコルテスを牽制する目的で送ってきた小規模な軍隊に対処するためだ。
このとき留守中の責任者に任命されたペドロ・デ・アルバラードは、祭典に興じるアステカ人が 反乱を企てているという疑いを抱き、恐怖にかられて大虐殺を命令してしまった。
これが発端となり、スペインに反感を抱く民衆が結束、コルテスが戻るころには惨憺たる状況になっていた。コルテスはもはやこの都から撤収するしかないと考え、その際の安全を確保するため、モンテスマに民衆との交渉を任せた。そのあとの経緯は明らかではないが、結果ははっきりしない。
1520年6月30日、コルテスはアステカの財宝を積めるだけ積み、自分の軍を率いて真夜中に都を出た。ところが荷物が重すぎたため脱出に時間がかかり、アステカ人に追いつかれてしまった。多くが殺され、略奪した財宝の大半は取り戻されてしまった。
ラ・ノーチェ・トリステ(「悲しみの夜」の意味)と呼ばれるこの戦いを端緒に長い戦いが続いたが、1521年にはコルテスがテノチティトランに戻り、都を支配下に入れた。ところがこの時には、かつて城壁の中にあった莫大な財宝はすっかり消えていた。モンテスマの後継者が安全な場所に移すよう命じ、少なくとも2000人以上を使って運び出したという噂が流れた。
この時から、新世界でもっとも長い歴史のある宝探しが始まった。メキシコとアメリカ南西部の十数カ所が、宝の隠し場所の候補にあがった。多くの人々が財宝は北に運ばれ、アステカ文明の発祥の地と言われるアストランに着いたと信じている。といっても、アストランがどこなのか、実際に知っている人は誰もいない。
他にも、ユタ州のカナブを候補地に挙げる人々がいる。1940年代に雑誌に載ったフレディ・クリ スタルという探鉱者の話に基づく推測だ。記事によると、クリスタルは1920年に、400年前の宝の地図を修道院で見つけたという。
それから数年間、その地図を使って、意気投合した仲間を引き連れ、モンテスマの宝を探しに出かけた。一行はカナブのランドマーク、ホワイトマウンテンを探検し、隠れた洞窟をいくつか見つけたようだが、残念ながら財宝はなかった。財宝探しに出かけて失敗した同じような話は、メキシコ、カリフォルニア州、コロラド州、テキサス州など各地にある。
モンテスマの宝がいまだに見つからないのは当然だとする人々もいる。宝物が存在し、どこかに移されたという話そのものが、アステカやコンキスタドールにまつわる多くの作り話の一つに過ぎないというのだ。