黒川紀章という建築家には、過小な評価と過剰な評価が共存する。ある特定の世代には、2007年の都知事選へ出馬した際の泡沫ぶりが印象深いことだろう。またある世代においては、日本初の建築運動「メタボリズム」を颯爽と牽引した先進性が記憶に残っているかもしれない。いずれにしても彼には、毀誉褒貶という言葉がよく似合う。
だが彼が打ち出した「共生」という概念を今一度振り返れば、その不安定さの中に彼の居場所があったのではないかと感じる。「共生とは対立、矛盾を含みつつ競争、緊張の中から生まれる新しい創造的な関係をいう」と語った彼ならば、浮き沈みの激しい状態こそを、平穏なひと時と感じていたかのもしれない。
本書は、そんな黒川紀章の人生を600ページを越える分量で描き出した評伝的ノンフィクションである。彼の手掛けた建築物の一つ一つを中心に据えるのではなく、その思想や出来事を連ねて一つの創作物に見立てたらどのように見えるかといった趣きで構成されている。
「メディア型建築家」としての異名を取り、「饒舌過ぎる男」として数々のメディアに露出し、高度成長期を時代とともに駆け抜けた建築家の思想や生涯とはどのようなものだったのか?
彼の思想は、生命原理の基本コンセプトに殉じるという点において一貫性を持つ。有名な「メタボリズム運動」の語源も、元は生物用語で「新陳代謝」を意味する言葉である。1959年に黒川紀章や菊竹清訓によって構成された日本の若手建築家・都市計画家グループは、西洋的な価値観に基づく永久建築を否定し、社会の変化や人口の成長に合わせて有機的に成長する都市や建築を提案した。
黒川自身も、新陳代謝という時間の流れの中で、古いものと新しいものが共存する一瞬のひと時を、建築物という形でシャッターに収めていった。その代表的なものが、奇抜なデザインとして知られる銀座の中銀カプセルタワービルである。
この建設に先立って、彼が唱えたカプセル宣言(1969年)は、今読んでも非常に興味深い内容となっている。
カプセルとは、サイボーグ・アーキテクチュアである。人間と機械と空間が、対立関係をこえて新しい有機体をつくる。(中略) この精巧な装置は、道具としての装置ではなく、生命型に組み込まれる部分であり、それ自身が目的的存在となる。
カプセルは、情報社会におけるフィードバック装置である。場合によっては情報を拒否するための装置である。
カプセルは全体性を拒否し、体系的思想を拒否する。体系的思想の時代は終わった。思想は崩壊し、ことばに分解され、カプセル化される。一つのことば、一つの名前が広がり、変身し、浸透し、刺激し、大きく時代を動かす。
はたして彼の言うカプセルが、現在、世の建築物に多く見られるのかというと、むろんそんなことは全くない。だが、これを建築論ではなくメディア論として捉えるならどうだろう。カプセルは建築の領域を越え、装置としてのスマートフォンやウェアラブルデバイスの登場を予見していたとも考えられる。そして最も評価されるべきは、それがデバイスの議論に留まらず、情報の流れ方や個のあり方がどのように変わっていくかということについても、きちんと言及されていたことにある。
彼にしばしば見られる、このような建築とメディアの両義性は、マクルーハンに由来すると言われている。人間の身体を拡張するテクノロジーこそがメディアであるーーこの考えに則れば、建築もカプセルもメディアなのである。そしてそれは、彼自身が様々なメディアを賑わせていたことにもつながっていく。つまり、カプセルを増殖させる行為と彼自身がメディアへ頻繁に露出するという行為は、身体を拡張するという点ではどちらも同じであったのだ。
おそらく彼は、施工主である「時の権力」と使い手としての「大衆」、両者の間を媒介する中で、「大衆」の力が増大しつつあることに気付いていたのだろう。そしてカプセル宣言以降も、「ノマド」や「情報化社会」といった先進的なコンセプトを生み出し、未来を予見した。
やがて情報の流れと影響力が時とともに変遷し、「官」から「民」そして「個」へとフラット化し、ソーシャルメディア全盛の時代が到来したことは周知の事実である。彼の存在とともに、時代が、そしてメディアが新陳代謝を遂げていった。たとえ彼がいなくても、新陳代謝は起こったはずである。だが時代の変わり目には必ず彼のようなトリックスターが現れ、新陳代謝を面白く彩るのだ。
たしかに彼の唱える言葉の一つ一つは、今でも非常に示唆に富む内容である。一方で、これらのコンセプトを具現化した建築物に目を向けると、何か釈然としない印象を覚えるのもまた事実である。カプセルの例ひとつとっても、空間的なコンテキストが分かるようで分からないのである。
本書の執念とも言うべき圧倒的な取材量から見えてくるのが、この絶妙さと微妙さである。建築物や思想といった彼の創作物に対する、時間的な評価と空間的な評価の間には大きな隔たりが存在するのだ。時宜を捉えるも、場の必然性に欠ける。これこそが彼の毀誉褒貶の正体ではなかろうか。副題に「誰が黒川紀章を殺したか?」とあるが、時代の力が彼を押し上げ、場の空気が彼を黙殺したと言えるだろう。
黒川紀章の人生を時間軸でつなぎ、メディア史に重ね合わせる。黒川紀章の本当の真価が見えてくるのはこの角度でしかないという絶妙なアングルで、彼の生涯が描かれている。時には彼へ向けられた辛辣な評価をありのまま紹介しているにもかかわらず、対象者へ強く感情移入できるのは、この点によるところが大きい。まさに評伝の力、ここに極まれりといった一冊である。