さすがは山本義隆、と唸るしかない一冊だ。これが予備校での講演録だというから恐れ入る。原子とは何か、原子核とは何か、が、アリストテレスにはじまり、発見の歴史的経緯を追いながら丁寧に説明されていく。多少の数学と物理の知識は必要かもしれないが、古典力学から説き起こされる原子や原子核の話は直感的に捕らえやすく、決して難しくない。
そして、最後は原子力について。核分裂の発見から、原子炉の開発、そして、原子爆弾。もちろん原子力発電の問題についても論じられている。あぁ、なるほど、この本を読むと、山本義隆が『磁力と重力の発見』で大佛次郎賞を受賞した時の、何のために勉強するのかについて語ったこの言葉がすとんと腑に落ちる。
専門のことであろうが、専門外のことであろうが、要するにものごとを自分の頭で考え、自分の言葉で自分の意見を表明できるようになるため。たったそれだけのことです。そのために勉強するのです。
原子力の将来について、漠然と考えてはいたけれど、この本を読んで、自分なりにものすごくすっきりした。原子力発電の何が問題なのか。本当に理解するには、原子や原子核、そして、その成果に基づいた原子力というのは何なのか、を勉強したほうがいいに決まっている。
原子力によるエネルギーがどれくらい大きいのか。廃棄物がどれくらい出てどのような影響があって、その処理は可能なのか。原子力発電の原料は無限にあるのか。現在の原子力発電はいかに未来に負担を先送りしているのか。これらのことをきちんと理解して、自分の頭で考えるにはきちんと『勉強』するしかないのである。
山本義隆の名はどれくらい知られているのだろう。将来を嘱望される理論物理学の学生でありながら、学生運動の最盛期に東大全共闘の委員長となり、退学。以後、駿河台予備校で物理学の教鞭をとる。しかし、そこにおさまる人ではなかった。『磁力と重力の発見』をはじめ、いかにして科学の一般化に何が寄与したかを論じた『十六世紀科学革命』など、オリジナリティーあふれる本をあらわしている。
その経歴のなせる技なのであろうか、考え抜かれた論調はカミソリのようで爽快感すら感じてしまう。原子力そのものについてだけではない。原子力の利用が可能になるかもしれないと無批判に語った世界的物理学者・長岡半太郎に対しても、あまりに楽観的すぎる、学者はもっと謙虚であるべきだと断言する。
まったく個人的な話であるが、私にとっての山本義隆は伝説の人である。面識がある訳ではない。高校の先輩なのだ。15年違いであるが、授業中おしゃべりをしていても、どんな質問にも答えることができたという聖徳太子みたいな話や、図書館の本をすべて読んだ、とか、真偽の定かでない神話のような話が語り継がれていた。
もし素粒子論を続けておられたら、どのような学者になっておられたことだろう。考えても仕方のないことだが、こうなるようにサイコロを振った神様に聞いてみたくなってしまうのである。
自分の頭で考え、自分の言葉で語る、というのはこういうことなのか。全三巻と長いけれど、知的興奮が連続します。
十七世紀に 科学が一般化される素地は十六世紀にあった。これも抜群の知的刺激。