「青木薫のサイエンス通信」番外編の更新です。今回取り上げたのは、仲野徹とのクロスレビューになる『完治 – HIVに勝利した二人のベルリン患者の物語』。なぜHIVを克服するのが難しいのか?そこを深く理解することで、患者を「完治」へと導いた主治医の「着眼」が見えてきます。
(※本稿は、青木さんご自身のFacebookに書かれていた感想を、そのまま掲載させていただいております。)
今年に入ってすぐの頃だったと思うのですが、『ニューヨーカー』にジェローム・グループマン(ハーバード大学医学部教授で、『ニューヨーカー』のスタッフライター)が、エイズ治療の最前線をレポートしていました。グループマンは、エイズがエイズと呼ばれるようになる前から、この病気の研究に関わっていたとのことで、さすがと言うべきか、研究の最前線が、とても見通しよく、かつ魅力的に描かれていて、思わず引き込まれてしまいました。
ところで、おそらくはみなさんもご存じのように、今ではHIV(ヒト免疫不全ウイルス)に感染しても、きちんと治療を続けさえすれば、かなり長く生きられるようになっているのですよね。かつて「死病」として恐れられていたことも、もう、半ば忘れられているかもしれません。それというのも、たとえウイルスを駆逐するのは難しくても、ウィルスとともに生きていけるようにしようじゃないかという路線で、医者や研究者たちが頑張ってきたおかげです。
それでも研究者も医者も、やはり患者を完治させたい。その理由は、大ざっぱには次のようなことだそうです。
まず第一に、治療を続けていればかなり長生きできるとはいえ、やはり非感染者のようにはいかないからです。たとえば、HIV感染者に典型的に見られる症状のひとつに、脂肪代謝異常があります。顔や手足の脂肪が落ちて、げっそりと痩せこける。そして、お腹にばかり脂肪がつく。その結果として、パッと見、感染者かな? とわかる外見になるのだそうです。それ以外にも、血管や臓器が傷み、大ざっぱに言うと、老化が早く進むような感じになるそうです。
第二の理由は、費用の問題です。アメリカできちんと治療しようとすると、日本円にして、ざっくり一人当たり一年間に一千万円ほどになるらしいです。保険が効いて、高額医療補助などが利用できる人ならば、治療を続けることも可能でしょう。しかし、地球上のHIV感染者の分布を考えても、一体どれくらいの人たちがそんな治療を続けられるというのか……。
だから研究者は、完治を目指す。グループマンによれば、現在、完治を目指して、大きく三つの路線がとられているそうです。
1 免疫の強化
2 胎児の免疫系に学ぶ
3 「ベルリン患者」の例に学ぶ
この三つの路線のなかで、二つ目の胎児の免疫系の話も興味深かったのですが、なんといっても心引かれたのは、「ベルリン患者」の話でした。その患者さんは、HIVに感染しただけでなく、急性骨髄性白血病を発症してしまったそうなんです。で、骨髄移植をすることに。
そのとき、主治医が「あること」を思いつき、特殊なドナーから骨髄をもらうことにしたんだそうです。
ところで、そもそもHIVをやっつけるのが難しい理由は、HIVが、ある種の免疫細胞を隠れ家にして、そこで冬眠しちゃうからなんですね。隠れ家に入り込まれてしまうと、もう手も足も出ない。ウイルスをやっつける薬を患者の体に送り込んでも、HIVには届かない。
とくに、メモリーT細胞と呼ばれる「隠れ家」はとても寿命が長いため、いつまでもいつまでも、HIVを匿ってしまいます。何年、何十年と治療を続け、もう血液中にHIVがいなくなったかな? と思っても、いつ何時、HIVが目覚め、激しく増殖して、元の木阿弥になってしまうか分からないのです。
しかし(ここが重要なところなのですが)、免疫細胞に関係して、ある種の遺伝子変異を持つ人は、HIVが「隠れ家」に入りために必要な「鍵」を作れないのだそうです。「鍵」がなければ、HIVは「隠れ家」に入れず、もろに攻撃を受けて、いずれ追い出されてしまう。
「ベルリン患者」は、一度の骨髄移植では、白血病を叩くことができませんでした。それは命にかかわる深刻な危機です。結局、彼は骨髄移植というリスクの高い治療を二度受けることになります。そして二度とも、HIVが必要とする「鍵」を持たない特殊なドナーから骨髄をもらうことができました。その過酷な治療を生き延びた「ベルリン患者」は、なんと、完治したと判断されるに至ります。
こうして彼は、1981年にこの病気が報告されて以来初めて、「完治」した患者となったのです。
たった一例でも、これは画期的なケースです。当然ながら、リスクの高い過酷な治療を、そのまま普通のHIV感染者に施するわけにはいきません。しかし突破口が開かれれたことの意味は大きく、研究者たちは、あの手この手で、その道を広げていこうとしているとのこと。
わたしはクルーグマンのこのレポートを読んで、いろいろなことを考えました。その「主治医」は、いったいどういう人なのだろう? どうやって、そんな特殊なドナーを見つけることができたのだろう? 「ベルリン患者」は、今どうしているのだろう?
そしたらば! な、なんと、そのものズバリ! 『完治』という本が出たのです!
著者のナターリア・ホルトは、院生時代にマウスを使ったHIVの研究をしていて、うっかりHIVに入った注射針を指にさしてしまいます。それは、病院で治療中の患者から採血する際に誤って針を刺す、というのとは桁違いに危険なことでした。治療中の患者は、血液中にほとんどウィルスがいない。それに対して彼女が扱っていたHIVは、はるかに濃度が高く、しかもとても危険な種類だったのです。
そこから始まる息詰まるような物語。HIVや免疫の仕組みについての説明を加えつつ、ホルトの筆致は緩むことなく、一気に読ませます。グループマンのレポートでは、「ベルリン患者」は一人ですが、ホルトの本では二人です。この二人のコントラストも、本書の読みどころのひとつと言えましょう。
『完治』は、エイズが死病だった1980年代の気分を伝え、ベルリンやサンフランシスコのゲイ・カルチャーの情景をスケッチし、医療の現場、研究の最先端の様子、そして生身の患者たちを描き出していきます。わたしは、グループマン・レポートの「ベルリン患者」が、今、どんな生き方をしているのかも、みなさんに知っていただきたいと思います。
本書『完治』は、HIVをぐっとあなたの身近に引き寄せるでしょう(いや、そういう意味じゃなくて^^;)。そして、HIV問題は特殊であると同時に、ある種の普遍性をも持つがゆえに、いろいろな問題へと心の窓を開いてくれるでしょう。
強くお勧めしたい一冊です。