井上理津子さんは、「目と耳と魂のひと」だ。
その目で見てその耳で聞き、その魂で書く。井上さんは女一生の仕事として、最後に残るのは書き手の「人柄」という恐ろしいジャンルを選んだ。
井上さんの文章は構えがない。「よし、行くぞ」の前に走り出しているので、構えている暇がないのだ。敵が構えている間に斬っている。相手は斬られていることにも気づかないかもしれない。いや、斬ってる本人も、自分の興味が刃だと気づいてないのではないか。まるで居合抜きのような気配を漂わせながら、しかし彼女は途中何度も、自分の取材方法に悔いを挟み込む。最後まで走って残る「悔い」ではない。走りながらつまずきながら、更に走るためのエネルギーとしての「悔い」だ。
井上さんはこれをオリジナルの文章芸としてさらけ出してしまう。ゆえに書き手と読者が、同じ視線の高さで取材対象を見つめることになる。書き手の体を巡っている血が書かせているのかもしれない。本能なのか――。
その、体温に比例する井上節に触れているとき、「なんて無防備な格好で走っているんだ。おばちゃん、転んでしまうで」とツッコミを入れたくなることたびたび。こちら極道映画が大好物で、この手の話には目がないのだが、井上さんの徹底ぶりには正直ハラハラする。組事務所にいきなり訪ねて行き門前払いをされるも、その後すぐに手紙で筋を通す。そして一家を構える組長に「身も蓋もない質問」をするのだ。無防備もここまでくると痛快だが、文章にならなかったあれやこれやを想像すると、こちらの心拍数は上がりっぱなしだ。
取材のためなら友人(タカヤマさん)に飛田の求人募集で囮面接をさせる。目と鼻の先にある警察署に「取締の有無」を訊ねる。話を聞かせてくれ、と手製のビラも配る。
ビラを見て連絡をくれた女の子の、借金や男での失敗が満載の告白を聞き、著者はうっかり「消費生活センターとか法律事務所に相談しなかったんですか?」と聞いてしまう。電話はそのあとブチッと切れた。著者は「私は地雷を踏んだのだ。こういう場合、まともな質問をはさんではいけなかったのだ」と悔いる。
(女の子の)告白には首を傾げたくなることがいくつもあった――が、井上節はそこで終わらず。――しかし、今思うに、話のいくぶんかは本当だった、と――思うのだ。女の子たちの告白が明らかな虚言だったとしても、彼女たちの言う「ドラマにでも映画にでもなる人生」というドレスを(その時だけでも)着させてあげれば良かったというところに着地する。書き手の涙が見える瞬間だ。400枚配ったビラで、連絡をくれたのは4人だった。
本書は、女の生き方、生きる場所、死ぬ場所、を追求し続けてきた著者が12年という長きにわたり取材しつづけた色街、「飛田新地」で目にした現実だ。フィルターとして在る視線が女性ゆえ、男性の書き手とはまったく異なる角度から切り込んでいる。
本書は、「春をひさぐ女性」の、「女」の一文字を取り出して、「生活」というスポットライトをあてている。これが男性の視点を持つとどうなるか。「性」の一文字を取り出して「女」にスポットがあたるのではないか、と考えた。強いて言うなら、「売りものの春」に金を払う者と受け取る者の、意識の違いが出る一冊なのだ。
取材を始めたころの記述が生々しい。料理組合の幹部とのやりとりだ。
「で、ご用件は?」に彼女は直球も直球、剛速球のストレートを投げ込む。この球は本人も止められないし、本能だから仕方ない。
「飛田の町が好きだから歴史を書きたい、町のあらましを知りたい」
訴える著者と、笑顔のいっさいない男性六人の言葉の綱渡り。
「書いてもらわんでいい」
「飛田のことは、話すべきことではない」
しかし「大阪の古き良き町を代表するような町やから、もっと知りたいんです」と食い下がる彼女に返ってきた言葉が「それ書いたら、おたくはいくら儲かるの?」だ。
「あんまり儲からない」と彼女は答える。しかし「儲からなくても、書きたいんです」と続ける。人の心が動くとき、いつもそこには「切実」があると思っている。まさにこのやりとりによって、書き手の輪郭がはっきりする。姿勢が決まる瞬間だ。儲からないと言い切る姿が、いつしか相手の心を動かしてゆくのだ。
「あんたに話すことは何もない」、穏やかな口調での押し問答は続く。
「それはなんでですか?」と著者。
「おたくが、飛田を本当のところはどう思ってはるのか分からへんけど、昔はともかく、今は私らはイカンことしてるんやから。書かれては困るんや」
かみしめるように放たれた言葉に対して「イカンことをしている」意識があるのだ、と驚くところが井上節の「抜き」だ。好奇心と罪悪感と冷静さでマーブル模様になった文章は、常に等身大。読者にストレスを与えない文章とはこういうものかと気づかされる。文は人、というのは本当だった。
12年ものあいだ同じ意識を持ち気づきを繰り返す。想像しただけで気が遠くなる。この間の書き手のフィルターは、透明。まったく濁りを感じない。本書は取材先が生身の人間であるがゆえ、書き手の迷いは迷いとして認めながら前に進むのだ。
そして、歴史と街のあらましを記した箇所では一切の迷いが消える。取材にかけた長い年月と資料の数が立証するできごと、ひとつひとつが重い。人と歴史のあいだに立ち、己を守る術を忘れた書き手の執念が見える。
ふと漏れ出したように綴られる箇所で、思わず手を止めた。
「人は多面体だ。経歴を問われ、答える時、軸足をどこに置くかによって、いかようにも話すことができる。自分を正当化するなり、卑下するなり、微妙な創作を他意なく加えがちだ。誰だってそうだ。聞く側との距離が縮まらないうちから、率先して都合の悪いことなど口にしないのも当然だろう」
だからこそ、ノンフィクション、フィクションにかかわらず、書き手は自分の軸を曲げられないのだ。迷いはしても、曲げない。結果的に、曲げられなかったことしか世に出て行かないことを、経験的に識っている。
拙著『ラブレス』の記事取材をしてもらってからのつき合いだが、興味の方向が似ているらしく、話しだしたらとまらない。
いつか電話でこんなやりとりをしたことがある。
「カニサラダ作るときってさ、カニのむき身だけじゃちょっともの足りないらしいよ」とワタクシ。
「え、なになに、それ」と井上さん(どうだこの、スカッと飛びつく足さばきの良さ)。
「風味だすのにカニカマボコをちょっとだけ入れると旨いって聞いた。ノンフィクションとフィクションって、もしかしたらこのカニのむき身の分量と書き手のフィルターのバランスが関係あるかもしれないな、って」
「ちょっと、いきなりグッサリくるようなこと言わんといて」
「いや、アタシはどうやらカニカマだけで作っているかなぁ、って思ったもんだから。フィルターの反省も込めてさ……」
「あたしいま、カニカマってメモした……どうすんの、メモしちゃったよ!」
あれ以来、お互い旨いカニサラダを作ることばかり考えている。
生きること、死ぬこと、生きてきた道、これから往く道、そして人間――。
実際にいるひとやあったことを綴る人間と、そこにないもの居ない人を綴る人間の目指しているものは、等しく「真実」(カニサラダ)であったか。あの日、ふたりとも同時にため息を吐いたので、おそらく同じ気持ちだったろう。
産婆さん、下町酒場、大阪名物に女の仕事、そして納棺師。まさにゆりかごから墓場まで、人の世の好奇心を背負って生きる井上理津子の仕事に終わりはない。
時代の尻馬に乗らず、長い長い年月と有り金をたたき込んだ一冊『さいごの色街 飛田』は、己の味を信じて書き続けてきた著者の「心意気」を読む醍醐味に溢れている。
文庫化まで街を見つめ続けてきた14年間、飛田新地もずいぶんその姿を変えたという。経営者、女の子、客引きのおばちゃん、お客も街の景観も。なので文庫版には、長い「あとがき」が加えられた。〝その後の色街 飛田〟だ。
あとがきの長さが、単行本から文庫になるまでの間、人が動き建物が古び、なにもかもが「生きている」あるいは「生きていた」ことを教えてくれる。いつだって、劣化しないものの恐ろしさを、正直に恐ろしいと言える人間でありたい。人も思いも移ろいゆくもの。そんな書き手の切ない思いが、あとがきの行間に滲んでいる。
彼女は書く。「かつてのフィルム写真は、真実のみを写し取り、プリントは経年につれて徐々にセピア色化していった。対して、デジカメで撮った写真は色褪せることもなければ、いかようにも加工が可能である」と。やはり、劣化しないものは、ひとに「かなしみ」を伝えてはくれないのだ。
女の道は穴だらけだが、その心と体に無数に空いた穴の愛しさよ。
ページをめくっていると、「女の穴は、男の穴でもある」と言われている気がする。本書の半ばにある一行が、ことのほか好きだ。
――しぶとく、すさまじく、ろくでもない。
書き手、井上理津子が愛してやまないものが、この一行に込められている気がするのだ。
文庫版『さいごの色街 飛田』は、人の世の欠落と過剰を、まるごと愛してくれるひとの、人情凝縮の一冊として、新たな一歩を踏み出した。
2011年の単行本あとがきには、「売買春の是非を問いたいわけではなかったが、そのことについては、書き終わった今も私に解答はない」とある。きっと文庫化された今も、著者の意識は同じ思いを抱えたまま、飛田の街を歩いている。
(平成26年11月、作家)
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