「ヒラノ教授、あんたの時代はよかった」。工学部ヒラノ教授シリーズを読んだ現役教授たちは、私とおなじようにつぶやくだろう。ご本人は、どこがよかったのか、とおっしゃるかもしれない。しかし、20年ほど前、いろいろと不自由や不条理はあったけれど、国立大学はゆるくてのどかな場所だった。
この本では、その時代にヒラノ教授が(たぶんやむなく)手を染められた不正行為が大胆に開陳されている。しかし、窃盗罪や詐欺罪でも時効は7年。東京工業大学を停年で辞されてから10年以上になるヒラノ教授、いまさら咎められることもありますまい。それに、20年ほど前は、やったらダメとわかっていても、いかんともしがたい事情が多々あった。
某省の研究費など、どういう理由かは知らないが、毎年2月にならないと振り込まれなかった。単年度決済なのだから、3月の中旬までに使い切る必要があるにもかかわらず、である。もちろん計画は一年かけて遂行すると申請してあるし、実際に時間がかかる。どうしろと言うのか、まったく理解ができなかった。
建前としてはいけないことになっていたけれど、業者さんからの借金が常態化していた。前借りしないと、使い切れないのである。その省の研究費を現金として金庫にため込んでいたという事件が報道されたことがある。いかなるトリックを使っていたかは知らないが、その教授は、借金することをよしとせず、貯金しておられたのだ。気持ちはわからないでもないし、家計なら誉められるところだ。けど、公金だ。さすがにそんなことをしてはお縄ちょうだいである。
いろいろと不合理な予算もあった。たとえば、旅費にしか使えない公費。使い切らないと、次年度に減らされるのではないかという恐怖感から、予算消化のための出張がけっこうあった。若手教授のころは、頼みやすかったせいか、年度末になるとあちこちへ特別講義におよばれしたものである。行っても行かなくてもいいような出張なので、いわば税金の無駄遣いではある。が、一応は合法的な予算消化である。同時に、当然のようにカラ出張もおこなわれていた。
ご想像のとおり、昔も今も、教授の自己保身と身勝手さはかなりのものである。だから、教授が自らカラ出張などはしない。あわれ、助教授や助手(現在は准教授と助教)が命じられることになる。もちろん、なかなか断れない。事務の人に見つかるといけないので、大学へは行きたくないところだが、教授はそれほど甘くない。かくして、できるだけ人に顔を合わせないよう、実験室にこもりきりで研究をせざるをえない、という最悪の状況になっていたりした。念のために申し上げておきますが、幸いなことに、私にはそのような経験は一度もございません。あ、教授らしく、保身してしもた……。
学生に学会発表をさせようにも、公的な研究費から旅費を出すことが難しかった。かといって、学生も教授もそれほど豊かではない。いかにして捻出するか。よく見聞きしたのは、学生にアルバイト謝金を出して、それをペイバックしてもらい――あるいはピンハネして――プールして使うというやり方だ。
実際に業務をさせて、その学生が納得していれば、少なくとも外見上の問題はない。が、アルバイトの実態がないのに謝金が払われているようなこともあった。いちばん問題なのは、はいそれでいいです、と言っていた学生が、どうしてペイバックしないといけないのかと素朴な疑問を感じたりすることである。そのとき、この美しきシステムはあっけなく崩壊する。
大学で教えていると、学生からの感謝などというのは期待すべきでなくて、逆恨みされなかったら良しとすべきであることが身にしみてわかってくる。いったん何らかのトラブルがあって、学生に不満でももたれ、ピンハネされてます、などと大学当局に通報されたら、こういう不正行為はひとたまりもない。実際にそうやって訴え出られて、お取り壊しになった研究室があったやに記憶している。
海外出張に行かずにごまかすことができたという、この本の第一章に紹介されているような話は、さすがに驚きだ。最初に海外出張に行ったのは、もう30年も前のことであるが、その頃でさえ、パスポートと航空券の提出が求められていた。まぁ、こういうのは、大学によってルールに違いがあるのだろう。
今はめったになくなったけれど、かつては、給与を全額もらいながら、年単位の海外出張というかたちで留学している人もけっこういた。第三章にもあるように、そういう人は、公的な用務先の国以外に出ることは原則禁止であった。なので、ドイツ留学中の知り合いの一人は、パスポートに出入国のスタンプが押されない国を選んで出国し、ひそかに観光を楽しんでいた。
が、どの国であったか忘れたが、事前に得ていた情報とは違って出入国スタンプを押されてしまって大慌て。気の毒に、帰国後どういう処罰を受けるのだろうかと案じてあげていたのだが、おとなしくしていたのは少しの間だけ。しばらくすると、何ら気にせずに、以前にも増してあちこちへ行くようになった。
あれ、どうしたんですか? 不正出入国っちゅうのは、ひとつでも、いくつやっても処分は同じやからですか、と聞いたら、驚くような答えが返ってきた。いやぁ、もう、帰国直前にパスポートを紛失することにしたからいいんです。ん? ロンダリングである。なるほど、帰国時には、留学先の国の出国スタンプだけが押されているパスポートになるということか。必要は発明の母、なんと賢いのだ。こうして不正行為が案出されていくのかと感心した。
いまは、昔と違って、研究費の使い方もずいぶんと融通がきくようになったので、不正をしてまで費用を捻出しなければならないような事情というのはなくなっている。それに、数多くの不正がおこなわれるたびに、しらみつぶしのように、それぞれのトリックができないようにルールが決められてきたので、不正など簡単にできなくなっている。
たとえば切符である。わが大阪大学では、出張の際、使用済み切符を持ち帰らなければならない。いまや主要な鉄道はすべて自動改札なので、普通にしてると改札機に切符を召し上げられてしまう。ちょっとえらそうにしてるおっさんが、駅員さんに頼んで『使用済』のスタンプを押してもらっているのを見たら、大学教員である可能性が高い。ちなみに、大学教員たるもの、すみませんこの切符持って帰らねばならないのです、などとへりくだって言うよりは、毅然として「記念乗車です」と宣言しながらもらいうけるのが正しい(ような気がする)。
物品の購入は、かならず事務で検収をうけなければならない。こうすることにより、借金で物を買ったり、品目をごまかして購入したりできなくなっている。はずである。残念ながら、研究費というのは、申請してもコンスタントに採択される訳ではない。借金が不可なのだから、金の切れ目が研究の切れ目。にっちもさっちもいかなくなって、研究ができなくなった研究室があってもよさそうなものだ。
しかし、寡聞にして、研究室が倒産したという話はついぞ聞いたことがない。なんらかのトリック、あるいは、ウソ、があるに違いないとふんでいるのではあるが、どうなのだろうか。一方で、これだけ制度が厳しくなっているのだから、相当にオリジナリティーのある技を使わないと不正はできないはずなのだが、なかなか不正行為はなくならない。そんな技を考える時間があれば、もっと研究にいそしんでほしいところである。
大学の研究室というのは、いわば、資本金ゼロの零細企業みたいなものだ。業績という、金銭では計り知れない有意義なもの、あるいは、金銭には換算できない無意味なもの、を商品として、あとは、舌先三寸で、いや、もとへ、申請書を書いて予算を獲得するというビジネスモデルである。
また、商品を買ってくれるような直接の顧客ではないけれど、学生さんたちは、大学にお金をはらってくれる、ある意味ではお客さんである。だから、ハラスメントなどの狼藉をはたらくのはもってのほか。とあるセクハラ担当専門の先生は、「あたりまえのことです。お客さんに手をだしたらアウトに決まってるでしょう」と、断言していた。わかりやすい。
セクハラよりアカハラの方がはるかに厄介である。こちらとしては指導しているつもりが、ハラスメントと受け取られることだって十分にありえるのだ。アホなことをした大学院生に、思わず、この程度のことは小学生でもわかるやろ、と注意したことがある。しばらくしてから、スタッフがやってきて、先生、あの発言はアカハラに該当しますから、以後気をつけてください、という。
ほんまかいなとしらべてみると、そのスタッフが正しかった。抽象的に、君、理解力が低すぎるよ、と諭すのはいいらしい。が、小学生レベルなどと、明かな具体例をあげて「貶める」ような発言はあかんらしい。時代である。いまや、言いたいことの一割も言えなくなっている。残念ながら、抽象的に注意して、十分にわからせるような高等な術を私は知らない。まずもって、相手の理解力が低いのだからなおさらだ。が、アカハラは避けねばならないのであるから、言うわけにはいかない。こうして、指導力が低下していく。
自分のことは、さて棚に上げ、昔は、歩くアカハラみたいな先生、いまの判定基準でいうと、三日に一回くらいの割合でアカハラ案件をおこしておられたような先生がごろごろおられた。もうお亡くなりになられたが、ノーベル賞も夢ではないといわれていた某大先生。座右の銘が「努力は無限」というだけあって、それは厳しかった。自分に厳しいだけならいいけれど、研究室の人たちにも厳しかった。夜中の十二時をまわっているのに、研究室にいなかったからといって激怒された、などという程度の伝説は数多く。
大晦日にディスカッションをして、じゃあ続きは明日にしますか明後日にしますか、と尋ねられ、なに聞いとるんやぁと思いながら、できれば明後日にお願いしますと答えたという話もある。もちろん土日も休みなし。しかし、その先生の論理は明快。日曜日もフルで働いたら、普通の人が7年かかる仕事が6年でできる、というのだ(ちなみに、土曜日がお休みになる前のお話であります)。わかりやすすぎる。が、いまなら、間違いなくアカハラ認定だ。
制度が整備され、やむをえず不正をする必要はなくなったし、ハラスメントも激減しているだろう。昔にくらべたら研究費も潤沢だ。そう思うと、大学の状況というのは相当によくなっているはずなのだが、国立大学に漂う閉塞感は尋常ではない。単なる気分だけではない。業績の面でも、欧米、中国など、他国は右肩あがりなのに、日本からの論文数だけが、平成18年から減少に転じているという、とっても暗いデータがある。
原因はいろいろあるだろうけれど、平成16年度におこなわれた、国立大学の独立法人化の影響が大きいという解釈に異を唱える人は少ないだろう。大学に裁量権を与える、というと聞こえはいいが、その分、明らかに教員の運営業務が増加した。任期制のポストが増える、給与の伸びは鈍る、など、雇用条件も悪くなってきている。
その上、文部科学省からいただく運営費交付金は、「大学改革促進係数」という、いまひとつ意味がよくわからない係数をもって、毎年、着実に減額され続けている。研究室と同じく、倒産する国立大学が出ないのが不思議なほどである。地方の国立大学では、節約のため、涙ぐましい努力がなされているところもあると耳にしたりする。
もちろん、お上である文部科学省は冷たいばかりではない。いろいろな理由をつけて、こういうことをやったらお金をあげましょう、という「エサ」をまいてくださる。そういった競争的資金に、各大学は我先に手をあげる。そんなエサの中には、なんとなく後になって困りそうな「毒饅頭」っぽいものもある。しかし、おなかがすいているから、食べざるをえない。いまの国立大学は、貧すれば鈍する、を絵に描いたような状況なのである。
平成27年度からは、法律が一部「改正」され、一層のガバナンス=統治が導入されようとしている。かつては自治を誇りにしていた大学が統治へと舵を切らざるをえないのである。旧態依然とした大学側にも多々問題があることは重々承知している。しかし、いきなり不慣れな制度が導入され、国立大学がどうなっていくのか、先行きはほんとうに不透明だ。
ヒラノ教授の本を読みながら、そんなこともあったなぁと、なつかしみ、笑って読んでいられる今は、まだましな時代なのかもしれない。ヒラノ教授シリーズは、ノンフィクションを語っているが、ユートピア的な国立大学を描いたフィクションではないかと、20年後には多くの人が疑うような時代になっている可能性すらある。ヒラノ教授の時代はそれほどいい時代だったかもしれないのだ。