著者の布施英利先生が行う絵画教室はとてもシンプルだ。絵筆を置いて、自然へと繰り出す。そして自分のはらわたが疼くのを確認したら、素直に絵に描いて表現しよう。「そんなに簡単に言われても」、と困るかもしれないが、自分を表現するには、自然を目の前にして、自分の中で何が起こっているのかを理解しなければならない。
本書は2000年10月に『絵筆のいらない絵画教室』として刊行されたものが文庫化されたものだ。著者が養老孟司教授や三木成夫教授のもとで学んだ美術解剖学をベースに、人の身体・心がどのように進化してきたのか、その過程で絵を描くのは何を意味するのか、そしてなぜ自然が必要なのかを、言葉を噛み砕き、丁寧に教えてくれる。
美術解剖学とは、どのような学問なのだろう。それは古代ギリシャやエジプトまで遡るほど古い歴史がある。作品として花を咲かせたのはルネサンス期、代表画家はレオナルド・ダ・ヴィンチ。布施先生曰く、彼の絵は、人物も衣服も、背景の自然や室内家具も、徹底して観察され尽くされており、まるで設計図のようだという。彼は画家であると同時に、解剖学者であり、地質学者であり、植物学者であり、色彩学者であり、機会の設計技師であったため、画家だけではなく、すべての人を満足させる作品を後世に残すことが出来た。
ダ・ヴィンチから、美術と解剖学をつなげるものが見えてくる。それは、「自然から学ぶ」ということだ。例えば、『モナ・リザ』を描くにしても、皮膚をじっくりと観察し、さらに皮膚をめくりその下にある筋肉を観察し、さらに筋肉の下にある骨までも研究し尽くしている。人間の体には、生命が地球に誕生してから、長い年月をかけた進化の過程が刻まれている。つまり、人の体は自然そのものなのだ。
ダ・ヴィンチの意図を継いだ布施先生の絵画教室では、絵筆を手に取る前に釣り竿を手に取る。イメージの魚を描くのではなく、五感を用いて魚から得たインスピレーションを、画用紙上に表現する。実際に小学生を対象に実践した2日間の絵画教室で、子どもたちの絵がどれほど変わったのか、本書で見てもらいたい。解剖の成果を図説で表す生徒もいれば、魚に独自のストーリーを加える生徒など、まさに十人十色。自然に触れ、心の中で疼いたものを上手く表現出来るようになっていた。
布施先生の美術解剖学は、先生の師匠である三木成夫先生の思想の上に成り立っている。こころとは、何か。こころとは、内臓が作り出す気分の総称であり、内臓が持つ独特なリズムは宇宙に呼応している、というのが三木先生の説である。
人間は、脳を中心とする動物性器官と、心臓を中心とする植物性器官で成り立っている。動物性器官は、五感を伴い、絶えず外界からの刺激に反応し続け、一方、植物性器官は、食べ物の栄養を吸収し、身体を通る一本の管を介してやりとりしているのだ。植物性器官は、動物性器官と比べて外界からの刺激に振り回されないため、太古から進化により受け継がれてきた、私たちの意識にすらのぼらない世界、大自然が存在しているのではないか。
三木先生や布施先生が説く自然とは、山や川など外に存在すると同時に、私たちの体内にも存在するものだった。だから絵で自分を表現しようとしたら、「外なる自然」に共振する「内なる自然」を注意深く観察することが大切になってくる。
ですから、「こころ」は内臓にあります。また同じものが、地球環境の中にも、宇宙にもあるともいえます。その体の中の小宇宙と、外にある宇宙を響き合わせたとき、ぼくたちは「美しい」と感じるのです。ただの「きれい」ではなく、もっと深い「美しい」ということを。
はじめに情動ありき、そのあとに情動と理性のバランス、この順番を忘れるから、絵もテクニックや道具に走ってしまうのである。理性よりも感情的なものを見つめることが、人のなかに眠るアーティストの才能を引き出すきっかけになるかもしれない。後半には、布施先生流絵画教室の具体的な実施方法が載っている。「絵を描きたい」、「子どもの頃の感性を取り戻したい」と少しでも思うならば、実践あるのみである。
三木成夫先生の処女作である。私は読んで世界観ががらりと変わった。足立真穂のレビューはこちら。