著者のオリヴァー・サックスは1933年生まれのニューヨーク大学医学部教授。現役の脳神経科医であり、世界的な人気作家でもある。ロバート・デ・ニーロの好演でアカデミー賞にノミネートされた映画「レナードの朝」は、著者の同名ノンフィクション作品が原作だ。「レナードの朝」では治療不能な難病「嗜眠性脳炎」の患者とその主治医が主人公だった。嗜眠性脳炎とは30年以上も眠り続けるという不思議な病気だ。映画になるまでは世間ではほとんど知られていない病気だった。
『レナードの朝』(春日井晶子訳、早川書房、2000年)は特定の病気をテーマとした長編ノンフィクションだったが、オリヴァー・サックス作品の多くは脳神経医学エッセイ集だ。たとえば、『妻を帽子とまちがえた男』(高見幸郎・金沢泰子訳、早川書房、2009年)は24篇のエッセイで構成されている。妻の頭を帽子とまちがえてかぶろうとする音楽家、からだの感覚を失って姿勢が保てなくなってしまった若い母親、オルゴールのように懐かしい音楽が聞こえ続ける老婦人などが登場する。すべて、著者が医師として実際に接した患者たちだ。
『火星の人類学者』(吉田利子訳、早川書房、2001年)では、手術時にはピタリと静止するのに、普段は激しく体を動かし、汚いことばを吐き散らしつづけるトゥレット症候群の外科医。ある盲人が45年後に完全な視力を取り戻したが、盲目だったときの世界のイメージと統合できずに苦しみ、再び目が見えなくなったときに安住の地を取り戻した事例。などの7篇のエッセイがとりあげられている。そのすべてはじつに不思議な物語であり、人間という存在の複雑さや素晴らしさに感嘆するはずだ。
近刊の『心の視力』(大田直子訳、早川書房、2011年)では失明や失語症などによって、脳と心、そして想像力はどうはたらくのかについて、自らの症例を挙げながら説明を試みている。万能の才を持つように見えるオリヴァー・サックスは、生まれつき人の顔が見わけられない「相貌失認」であり、さらに右目の癌により2006年頃から視力を失っていたのだ。
さて、本書には『音楽嗜好症(ミユージコフイリア)』というタイトルどおり、音楽に関係する不思議な精神的症例が数多く登場する。2010年に単行本で発売された当初は2500円という価格だったため、古くからのオリヴァー・サックス・のファンや脳神経医学に興味のある読者には大いに評価されたが、音楽好きの若い読者にとってはハードルが高かったかもしれない。今回の文庫化を待ち望んでいた人は多かったであろう。じつに素晴らしい医学エッセイなのだ。
最初に登場するのは、幸運にも落雷から生還した42歳の整形外科医の物語だ。ある日、電話線を伝わってきた雷がこの医師の顔面を直撃した。しかし、医学的な検査の結果は問題なく、2週間後には仕事に復帰したという。この直後から医師は激しい音楽の波に飲み込まれる。突然、ピアノ音楽を聞きたくてたまらなくなったのだ。まずはショパンなどのレコードを買い集めた。そして、ほとんど楽譜も読めないのにピアノの練習をはじめる。
雷に打たれてから3カ月後には音楽以外のことに時間を使わなくなっていた。ついにはプロと共演するコンサートデビューを果たし、ピアノ曲を作曲して喝采を浴びてしまう。音楽の才能とは先天的・後天的を問わず天賦のものなのかとつくづく考えさせられる一篇でもある。
もちろん、脳神経医学者が書くエッセイだから、世界びっくり人間などを羅列するようなお手軽な読み物ではない。疾患や現象の発生機序についての仮説をたてながら、脳の構造や脳神経疾患についてたくみに解説を加えているのが本書の妙味だ。この事例では、雷に打たれたという臨死体験などではノルアドレナリンその他の神経伝達物質の急増が起こる可能性があり、結果的に大脳皮質だけでなく、脳の感情を司る部位──小脳扁桃と脳幹神経核──が影響を受けるのではないかという仮説を立てている。
ある特定の音楽を聞くと癲癇(てんかん)を起こす患者たちも登場する。音楽誘発性癲癇という病名が付けられている。規則正しいリズムに反応するのではない。G・Gという患者はロックからクラシックまで幅広いジャンルの音楽によって発作を起こしてしまう。いちばん誘発性が高いのは「ロマンチック」な音楽で、とくにフランク・シナトラの歌に反応するらしい。
ナポリ民謡に反応して大発作を起こしていた女性は症状が徐々に悪化し、一日に何度も発作に襲われるようになったため、MRIで検査したところ左側側頭葉に解剖学的異常と電気的異常の両方があることが発見された。部分側頭葉切除手術を受けた結果、ナポリ民謡を安心して聞けるようになったという。脳外科手術とナポリ民謡の対照は、事実は小説より奇なりの典型かもしれない。
このナポリ民謡の患者は2005年に著者の診察室を訪れた実例だ。オリヴァー・サックス作品の素晴らしさは、プロの作家が医師の話を聞いて書いたノンフィクション作品などではなく、プロの医師がカルテを見ながら書いた文芸作品であるところにある。臨場感だけでなく医学的な知識を得る楽しみもあるし、立派な医師に特有の人間に対する優しさや信頼がある。
「失音楽症」に悩む人々も登場する。リズム音痴や音程音痴のいくつかの実例が示されたあと、不協和音音痴ともいうべき症例が登場する。不協和と不協和ではない音楽を識別できないというのだ。傍海馬回皮質という部位に広範囲の損傷がある人だけが影響を受けているという。ところで、雅楽の笙が奏でる和音は西洋音楽からみると不協和音である。その意味では不協和音もリズムとおなじく文化的、すなわち後天的な慣れのようなものに左右されるのかもしれない。そんな読み方もできる本でもある。
さらに音楽音痴ともいえる症状を持つ老婦人の症例が紹介される。リズムは感じ取れるのだが、音程も音色も知覚できないというのだ。すべての音楽について「キッチンでありったけの鍋釜を床に放り出した時の音」にしか聞こえないのだという。オペラはすべて「金切り声」のように聞こえるという。もちろん、アメリカ国歌が流れてきても気づかない。他の人が立ち上がるまでわからないのだという。人間とはじつに不思議な生き物だ。
本書にはもちろん音楽サヴァン症候群も登場する。サヴァンとは知的障害や自閉症障害をもちながらも、常人には及びもつかない特殊な能力をもつ人たちのことだ。たとえば2000曲以上の『メサイア』や『クリスマス・オラトリオ』などのオペラやバッハのカンタータなどの楽曲を記憶している音楽サヴァンがいる。彼は壮大なオペラのなかでそれぞれに楽器が何を演奏するか、それぞれの歌手が何を歌うのかも覚えているという。
著者はこの章でサヴァンの原因についても言及している。胎児や生まれたての赤ん坊では右脳半球のほうが早くから発達する。左脳半球のほうが発達に時間がかかるが、独自の能力を獲得すると、右脳半球の知覚機能の一部を抑制したり阻止したりするようになる。この制御の優劣がなんらかの理由で左右逆転した場合、サヴァンが発生するのではないかという仮説を紹介している。この解説はさらに続くのだが、それは本書を読んでのお楽しみである。
本書の楽しみかたは、さまざまな脳神経の変調を主因とする病気を知ることであり、それに立ち向かう脳神経医たちの知識の積み重ねの努力を知ることだ。しかし、それ以上に著者の脳に蓄えられたストーリー力、すなわち知識を統合する能力を楽しむことができるはずだ。それはまさに音楽を楽しむがごとく、本書に身体を委ねる楽しみを意味する。その価値がある本だということをここで約束しておこう。