近代科学は、生命を時計仕掛けの機械と見なし、それを分解して部品に分け、そのいちいちに名をつけ、機械とのアナロジーで、生命現象を理解してきた。タンパク質や遺伝子は生命の部品であり、あるものはモーターとして、バネとして、滑車として、また別のものは、糊やはさみ、あるいはホッチキスのように働く、と。
昆虫少年出身の私もまた、いつのまにか、機械論的な分子生物学の切れ味のよさのとりこになり、還元主義的な研究の潮流のまっただ中に入って、タンパク質分子の精製や遺伝子の単離に邁進していた。そこには新種の蝶を採集するような、鋭い喜びがあったのだ。
しかしどんな狂奔にも限界があり、いかなる興奮にも覚醒が訪れるときがくる。2000年初頭、ヒトゲノム計画が完遂すると、事実上、新種の遺伝子はもうひとつも存在しないことになった。元昆虫少年たちは、採集すべき蝶や虫が一匹も残されていない荒野に取り残されてしまった。
一方、ヒトゲノム計画が完成したことで、くまなく明らかになるはずだった生命の神秘についていったい何が明らかになっただろうか。まだ何もわかっていないということが、わかったのだった。それはちょうど、映画を後ろから逆まわしで見るようなもので、エンドロールに記されたすべての配役と役者の名前はメモできたものの、その先のドラマとシナリオについては何も知り得ていない、という状況に似ていた。
そんな風にして、ようやく私は気がつきだした。
20世紀の生物学は、細胞の構造、タンパク質の合成過程、遺伝情報の発現メカニズムなど、作り方、作られ方ばかりを一生懸命、探求し、究明してきた。それは確かに驚くべき精妙さをもって構築されていた。しかし、さらに重要なことが最近になって判明してきた。21世紀の生物学は、生命がいかにして、細胞の解体と、タンパク質の分解と、遺伝情報の消去や抑制を行っているかの方に注目している。作り方、作られ方は基本的には一通り・一義的なのに対して、壊し方、壊され方の方は、千差万別、何通りも用意されており、いつ、いかなるときでも分解が滞らないように何重にもバックアップが用意されていることがわかってきたのである。
あたかも生命は、作ることよりも、壊すことの方を、より一生懸命にやっているかのようだ。そしてそれはまさにそのとおりだったのである。
生命は約37億年の時間の試練をくぐり抜けて、今日まで連綿と引き継がれてきた。こんなに長い時間、生命はいかにして生きながらえることができたのか。彼らは、時間と戦うために、はなから、頑丈に作ること、丈夫な壁や鎧で自らを守るという選択を早々にあきらめた。そんなことをしてもやがては打ち負かされ、あるいは崩されて行くのが自然の掟だ。そこで彼らは、あえて自分をやわらかく作った。ゆるゆる・やわやわにした。その上で、自らを常に、壊し・分解しつつ、作りなおし・更新するという方法を取ったのである。古くなったから、壊れたから、錆びたから交換するのではなく、古くなる前に、壊れるより先に、錆びる手前で、もう手当たり次第にどんどん新しいものに入れ替え、取り替えて行くことにしたのだ。
この絶え間のない分解と更新と交換の流れこそが生きているということの本質だった。逆にいえば、生命を定義づけ、特徴づけるものは、絶え間のない物質とエネルギーと情報の流れそのものだということができる。
そこで、私は、機械論的な見方に傾きすぎた生物学をもう少し、動的な、流れとその流れの中でかろうじてバランスをとるものとして捉えなおす、新しい生命観を打ち立てたいと考えるようになっていった。それが動的平衡の生命論である。
私たちは、常にミクロなレベルで、細胞や分子のレイヤーで、どんどんどんどん更新されている。一年も経つと、一年前に私を構成していた分子や原子のほとんどは入れかわってしまっている。だから久しぶりに会って「お変わりありませんね」と挨拶するのは正確ではなく、むしろ「お変わりありまくりですね」というのが正しい。一年前と今とでは物質的にすっかり変わっているのだから、アイデンティティとか主張の一貫性とか正確な記憶とかだって、何らかの確実な物質的根拠に立脚しているわけではない。だからほんとうのことをいえば、生物学的には、約束なんて守らなくてもいいんです。こんな風に私が説明するようになると、これを聞いた人は、笑いながら皆、同じことを口にした。
それって、ほら、あれとそっくり同じですね。ゆく河の流れは、絶えずして、しかももとの水にあらず、っていうあれですよ。方丈記、方丈記。鴨長明の方丈記。
なんのことはない。最先端科学を研究しつづけてきたつもりの私は、いまから800年以上も前に気づかれていたことを言い直しているにすぎなかったのだ。
つまり、不変とは変化のことであり、生命の恒常性とは、無常性のことなのだ。もちろん、「ああ、無情」の無情ではなく、二度と同じ状態はなく、たえず変転しているという意味の無常性である。もう少し、言葉を添えるなら、大きく変わらないために、常に小さく変わりつづけなければならない、ということである。秩序とはそれを守りたいがゆえに常に壊されなければならない、ということでもある。生命という高度の秩序は、常時、壊されようという圧力にさらされつづける。細胞を構成する要素は絶えず酸化され(錆びること)、変性され、分解される。構築はたわみ、ゆるみ、ゆがむ。熱は冷め、水は老廃物で濁り、ゴミがたまる。秩序あるものは秩序を失う方向にしか進むことはない。これは宇宙と自然の大原則であり、難しい言葉でいうと、エントロピー(乱雑さ)増大の法則、という。いかなる生命現象もこの法則を免れることはない。だからこそ、生命は率先して、自らを分解し、作りなおすという、いわば、三途の川の石積みか、シーシュポスの岩の持ち上げのような、無限の、むなしい努力を続けているのだ。これによって必然的にたまってくるエントロピーを何とか細胞から排出しようとがんばっているのである。
つまり、方丈のほとりを流れる川は、ただ漫然と流れているだけでなく、よどみに浮ぶうたかたは同じところにとどまらないようたえず消えつつ、同時に、たえず結びつつしているのだ。動きがとまり揺らぎが消えると命がついえる。
そしていかにシーシュポスがその努力を繰り返したにせよ、エントロピー増大の法則は、やがてその生命を捉え、引き倒してしまう。細胞からたえず完全に100%エントロピーを汲み出すことは不可能だからである。これが個体の死だ。しかし個体の死も生命の大きな流れの中では利他的なものとしてあらかじめ準備されたものである。ある個体が死ねば、その場所(ニッチ)に別の新しい個体が移り住めることになる。こうして生命は絶えず場所を譲り合って、生命を交換しあってきた。
また別の見方をすれば、個体の死は生命の終わりではない。死ぬまでに生命はすでに他の生命に引き継がれている。それは個体が子孫を残すことによって世代交代をしてエントロピーの低い状態=新しい状態を再生産するという意味だけではなく、生きているということはそれだけで流れを生み出しているということである。私が生きることによって、私の身体を通り抜けて行った分子や原子は、今この瞬間にでも、希釈され、分散しながら、かつ消え、かつ結びて、何か別の生命体の一部として流転している。それは葉っぱの一部かもしれないし、土壌中の微生物の栄養分かもしれない。つまり、ここにあるのは、生まれ変わったらカラスになるという意味の輪廻ではなく、生きながらにして私たちはあらゆるものとつながっているという関係性の認識である。
よいことも悪いことも、悲しいことも楽しいことも、あらゆることが、動的平衡たる生命の流れの中では、まもなく分解され、流れの中に拡散していく。それをむなしいと見ることもできるし、ここに希望を見いだすこともできる。少なくとも私たちは常にわずかずつでも更新されているのだと。つまらないことに拘泥するのはやめようと。これは、方丈記を諦観の文学と読むこともできるし、希望の文学とも読むことができることと完全に同じである。やはりここでも動的平衡論は、方丈記をかすかになぞっているにすぎない。
玄侑さんとは対談のお仕事をご一緒させていただいたことがある(『動的平衡ダイアローグ』木楽舎)。そのときに一致した意見は、方丈記は、冒頭もすばらしいけれど、終わり方もすばらしい、ということだった。
すべては常ならず流れゆくものとする世界観・生命観から始まって、無常の世に質素な方丈で暮らすことの満足と密やかな幸福を見いだす。しかし、ここで長明はもう一度、自問する。このような暮らしを一番よきものとして人生の到達点を考えること、これもまた執着ではないか、と。執着した地点で、動きはとまり、流れは淀む。そこで長明は最後にそっと阿弥陀仏の名を二、三度唱えた。この二、三度ということがまたいいんですよね。そう私たちは語り合った。
私自身、生命を考えるとき、近代科学が提示する機械論的な生命観に対するアンチテーゼとして動的平衡の生命観というものを主張してきたが、還元論と因果律を解毒したいがために、あまりにも動的平衡のもつ流動性や関係性・同時性を強調し、いい募りすぎたかもしれない。今回、方丈記を読みなおしてみて、ふとそんな風に感じた。これもある意味の執着ではないか。
そういえば玄侑さんは対談でこんなことも教えてくれていたのだった。初期仏教の教典に次のような一節がある。「此れ有るときに彼有り、此れ生ずるに依りて彼生ず」「此れ無きときに彼無し、此れ滅するに依りて彼滅す」。二つの文の前半はどちらも同時性について語り、後半部分はともに因果律を語っている。つまり仏教では、因果の存在を一方で認めつつ、他方、同時に起こる共時性にも目を向けてきたのだと。ああ、先人たちの思想の深さと射程は無限に遠くまでとどき、科学は単にそれをあとからちょっとかっこのいい言葉で反復しているだけにすぎない。動きと揺らぎをとめてはいけないのだ。
玄侑さんは、鴨長明の思想と言葉に対して心からリスペクトを示すと同時に、随所で、長明みたいに人間嫌いで、シニカルで、それでいて、自己憐憫が深い、寂しがりやを友だちにするのはさぞや厄介だろうとくさしたり、これからは何でも自分のことは自分でする、と一大決意を表明する長明を、上流階級の出だからそんなことを自慢げに言うけれど、われわれ庶民から見たらべつに大したことじゃない、といなしたりしている。この玄侑さんの鴨長明に対する接し方――まるで旧知の同級生のように、軽やかな悪口を叩き合いながら親密に語る――が、本書に通底するこころ暖まる持ち味となっている。それでいて、方丈記が秘める動的な思想性、多元的で、不即不離でありながら、そのような相対性への固執にも内省的であるという普遍性を巧みに抽出し、3・11以降の世界を生きる私たちに、方丈記を今読みなおすことの現代的な意義を鮮やかに見せてくれる。これはやはり玄侑さんご自身が、さまざまな旅路を経て、言葉を探し、思考を重ね、道を求め続けてきたからこそなし得ることだったのだろう。こんな方丈記解題はこれまでになかった。
(2014年5月、生物学者)
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