夏、真っ盛り。テレビを点ければ、映るのは白球を追いかける球児たちの姿。夏の風物詩の一つに数えられるその存在感はまさに、メジャースポーツと呼ぶに相応しい。
ただ、メジャーがあれば当然、マイナーもある。本書で語られるスポーツ、フリーダイビングは、間違いなく後者に当てはまるだろう。しかし、マイナーであることと、その競技の魅力の大きさというのは、全くの別物なのだ。なんとなく甲子園を見ているうちに忘れてしまいそうな、そんな当たり前のことを本書に気づかされた。
フリーダイビングは、空気タンクを背負わずに、一息でどれだけ深く潜れるのかを競うスポーツだ。沖縄、バハマ、その他世界中の青く透き通った海が舞台で、フリーダイビングが題材となった世界的ヒット映画、『グラン・ブルー』でその神秘性に触れた方もおられるのではないだろうか。
本書の著者、篠宮龍三さんは全8種の競技種目の中で最も注目度の高い「コンスタント・ウィズ・フィン」、通称コンスタント、を主戦場とし、そこで115メートルの日本記録を持つ(他2種でも日本記録を保持)。そんな日本を代表するダイバーが、自身のこれまでの競技人生を辿りながら世界一への思い、業界の現状、そして何よりも潜ることの魅力について語り尽くしたのが本書だ。
日本での競技人口がわずか100人ほどというから、競争率は決して高くない。著者自身、19歳でフリーダイビングの道に目覚めてから大学を卒業した後も、会社勤めと並行しながら週末にトレーニングする生活を5年続けていた。当時の日本記録、76mも会社員時代に打ち立てられたものだ。一見、経営学でいう「ブルーオーシャン」という言葉がしっくりくるようなスポーツに見える。
だが、そんな利点も全く霞んでしまうくらい競技環境は過酷だ。本場であるヨーロッパのトップクラス選手でも年収は500~1000万円ほど。トップ選手には数十億の金が動くメジャー競技とは雲泥の差だ。世界規模の大会で優勝しても賞金はたったの30万円くらいという状況のため、著者自身がメディア出演や執筆活動、時にはスポンサー獲得の営業などをこなし、海の外でも奮闘している。
競技中は、常に死の危険が付きまとう。ブラックアウト(酸欠による失神)や、耳抜きの失敗による鼓膜の破裂といった、水中で起きたら命に関わるようなアクシデントに見舞われる可能性を誰もが持つ。命を削るようなスポーツという意味でF1や競馬のジョッキーに似ていると言われることがあるそうだが、もちろん収入面では大きく異なる。収入とリスクのバランスを考えれば、これほど割に合わないスポーツにはそうそうお目にかかれないだろう。著者曰く、究極の「ハイリスク・ローリターン」。第3章のタイトルが、「フリーダイバーはつらいよ」となっているのも頷ける。
しかし過酷さを知れば知るほど逆に、それを凌駕する魅力の部分が際立ってくる。それでも潜り続ける理由は何処にあるのか。何がダイバーたちを駆り立てるのか。そんな疑問は読み進めるうちに見事に解きほぐされていく。読後の印象に残っていたのは、つらさよりも「美しさ」だった。
「フリーダイビングは最も美しいスポーツ」と著者は言い切る。水深30mからは重力の大きさが浮力と逆転し、何もせずとも体が勝手に海の底へ沈んでいく。その状態は「フリーフォール」と呼ばれ、海に溶けていくような無上の心地よさを覚えるという。
さらに深みへ進んでいくと、次第に澄んでいた青が深青へと変わっていく。前出の映画タイトルの、「グラン・ブルー」とは100mを超えた地点の深青の世界のことを指す。そこでは海の美しさだけでなく、生命の神秘まで感じるらしい。
大きな装置を使わずに自らの身体一つで海と対話する、素潜りという行為ならではの恍惚感と、記録を伸ばすほどに近づく「死」への恐怖が両立する。そんな世界を肌身をもって感じてきた著者が紡ぐ文章に、読者の想像力は掻き立てられる。読んでいるうちに地上の喧騒はしばし忘れさられ、意識は青に満ちた至高の世界へと深く沈んでいく。そのひと時は、至福の読書体験といっていいかもしれない。
現在37歳の著者は、世界記録である128mの壁を突破しての世界一を目指し、着実に歩を進めている。ここに至るまでの道のりは、とてもここには書ききれないくらい波乱万丈なので、是非本書を開いて辿ってみてほしい。マイナーであるが故の様々な障害。自分ではなく自然のペースに従わざるを得ないアウトドアスポーツの宿命。コントロールできないものの多さにもがきながらも、それを受け入れた末に形成された著者独自の哲学は、社会という巨大な理不尽の中で生きる多くの人の参考になりそうだ。
色々と書いてきたが、とにもかくにも本書は夏にピッタリなのだ。余談だが、家が海に近いということもあり、本書を海に面した場所へ行って読んでみたら、最高だった。海の話は海風に当たりながら読むとますます想像が膨らんで楽しいので、そんな読み方もオススメしておこう。
値段も新書のお手頃価格なので、千円札たった1枚で買えて、さらにアイスが1本買えるくらいのおつりも返ってくる。
究極の「ローリスク・ハイリターン」な本書を是非お供に、この夏を涼しく乗り切っていきましょう!
本書とセットで観れば、深青の世界がより鮮明にイメージできること間違いなし。
カバーがとにかく美しく、写真も付いている本書もオススメ。
HONZの検索窓で、「至福の読書体験」と入れたらこの本の土屋敦のレビューが出てきた。
奇しくも、こちらも新書。お手頃な割にリターンはかなりデカイ。