現在のドタバタ劇をみるに信じられないことかもしれないが、理化学研究所は、1917年の創立以来、「日本の科学界を牽引したのは理研」といわれるほど、数々の著名な日本人研究者を輩出している日本屈指の研究所である。
これまで、世界初のビタミン発見者といわれる鈴木梅太郎をはじめ、寺田寅彦、長岡半太郎、仁科芳雄、湯川秀樹、朝永振一郎などというそうそうたるメンバーの研究を支えてきた。学界だけでなく、日産自動車やソニーなど民間企業の技術をリードした人物は枚挙にいとまがない。高度成長期に欧米を圧倒して日本の自動車やテレビが輸出されたのは、みんな理研のおかげ、と言われるほどである。
本書は、そんな日本近代科学を牽引してきた理研の歴史を、当時の所属科学者たちの人物伝を中心に綴っているノンフィクションである。その物語の中心に据えられているのが、長年、理研の所長を務めた大河内正敏。彼の型破りな采配を中心に、理研がなぜ設立され、どういう哲学で運営され、その研究成果や研究者の輩出実績がいかなるものかなどが紹介されており、理研の日本科学界への偉大な貢献が理解できる一冊である。現在、様々な方面で話題になっている理研であるが、この研究所は本来どういった目的・経歴の組織だったのかを知るには最良の本だ。
本書は、まず、理研設立時の時代背景に遡る。近代科学を目の当たりにした明治の日本は、自国の科学技術力向上を目指し、お雇い外国人を招聘して優秀な若者たちを教育しはじめる。そしてその教育を受けた若者を欧米へと留学させ、帰国後には帝国大学の教授として迎え入れ、高給外国人に代わって次世代の人材育成をさせたのである。この国家戦略は功を奏し、日本から有能な科学者が数多く育つようになる。
一方、日本において科学の「研究」が花開くことは随分先になってからとなる。大学は研究よりも人材育成に重きが置かれ、欧米帰りの新進気鋭な科学者たちは、本業の研究ではなく、授業や事務に忙殺されることになったのである。
そんな当時の状況に対して「これではいかん」と立ち上がったのが、アメリカで研究を行っていた高峰譲吉と、日本資本主義の父といわれる渋沢栄一である。彼らは欧米技術の模倣にとどまらず、自らイノベーションを生み出すための基礎研究が日本にとって重要であり、科学者が研究に専念できる研究所の創立を目指し、奔走する。「人材養成ではなく研究の場を」という大義名分は当時なかなか世間から理解を得られなかったようであるが、渋沢栄一らは時の総理大臣である大隈重信や財界を口説き落とし、1917年、ついに理研の創立にこぎつけることとなる。
そしてこの理研の興隆期に所長として1921年より四半世紀にわたり舵取りをしたのが大河内正敏であった。彼は着任早々に部単位の組織や職制をとっぱらい、主任研究員のもとで研究室を独立させ、研究課題や予算や人事などのいっさいを主任の裁量に任せた。これにより理研はボトムアップ式の組織となり、自由闊達な雰囲気がうまれる。
大河内が目指したのは「研究の自由」という文化の浸透だった。何か役にたつことを気にかけるのでなく、ひたすら好奇心の趣くままに研究に熱中できる雰囲気づくりを何よりも大切にした。研究に必要な道具は何でも取り揃え、年初の予算外であっても研究者が必要とあれば調達してやったそうだ。そんな研究に不自由しない環境は、科学者の間で「科学者の楽園」として人気を集め、東大含む国立大教授が研究に専念したいと大学を辞めてまで理研に入所するほどであった。
理研の自由さを象徴する例として、理研内にあるテニスコートでは研究者たちが午前でも午後でもおかまいなしでプレーしていたという逸話もある。それを見て所長である大河内が発したコメントが伝説的だ、「一日一生懸命研究したら、一日遊んでもよいのだ」。自由さ加減はまるで現代のGoogle社のようである。結果としてこの自由な雰囲気こそが、「日本の科学界を牽引したのは理研」といわれるほどに数々の著名な研究者を後押しすることになったと、朝永振一郎は述懐する。
本書によると、戦後、GHQに解体されかけ、難破しそうであった理研を救った一人は、無名時代に理研や大河内に世話になった田中角栄だったという。戦後と同じく危機的状況の理研を、今回はどのような人物が救うことになるのかは現代を生きる世代として見ものである。本書が河出文庫から復刊された一ヶ月後に発表された理化学研究所改革委員会の提言書は、奇しくも最後の一文をこのように結んだ、「自由な発想が許される『科学者(研究者)の楽園』を構築すべく、理研が日本のリーダーとして範を示すことが期待される。」と。
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本稿は村上浩とのクロスレビュー。村上の書評はこちら。
本書にも登場する科学者たちの通史がまとまっているのは『天才と異才の日本科学史』。仲野徹の書評はこちら。