世界タイトルまで行くには、テレビ局がついてくれなあかん。そのためには注目されることが大事や。おまえがプロデビューしたら、オレが適当な相手を見つけてきたる。おまえはとりあえず倒しまくったらええ。プロは倒してなんぼや。連続KOの日本記録を狙うんや
昭和40年代後半、タクシー会社に勤めながらボクシングジムでトレーナー見習いをしていた津田博明はひとりの中学生にこう話しかけた。
津田の野望は壮大だった。世界王者のトレーナーになる。だが、ボクシング人気全盛の当時、ジムすら持っていない津田がアマチュアで実績を残した才能ある選手に巡り会うチャンスは皆無。津田は考えた。自分で原石を見つけて、磨き上げればいい。有力ジムでない以上、必要なのは「看板」だ。高校インターハイを制して、マッチメイクを工夫してでも「それなりの実績」をつくる。近所でボクシング好きな中学生の竹ノ内秀一に出会い、自宅や公園で二人三脚の練習が始まった。
数年後、津田は竹ノ内にのめり込んだが、竹ノ内の気持ちは離れていった。インターハイの決勝で敗れた後、あくまでもアマでの看板獲得に固執する津田とプロ転向を志望する竹ノ内。嫌気がさした竹ノ内はボクシングそのものを辞める。
津田が後に「浪速のロッキー」と呼ばれ、今は俳優として知られる赤井英和と竹ノ内からの紹介で出会ったのはこの頃。竹ノ内という唯一無二の存在を失った津田は当初乗り気でなかったが寂しさを埋めるかのように、赤井の指導を始める。
赤井のプロボクサー戦績は21戦19勝2敗。19勝の内、16勝がノックアウト(KO)。デビュー以来12連続KO勝利の当時の日本記録も打ち立てた。ボクシングブームは下火になっていたが、タイトル戦でもないのに試合は全国放送された。当時の世界王者でタイトルマッチを12連勝した渡辺二郎よりも高い人気を誇った。
赤井の戦績からもわかるように、津田が中学生の竹ノ内に語りかけ、実現できなかった世界王者へのステップを踏んだのが赤井だった。
後にマッチメイクが批判されたが、赤井の快進撃は途中からは所属ジムの会長である津田によってつくられた。そして、赤井のボクサーとしての最期も津田によりもたらされた。両者の決別は世間では金銭トラブルと言われてきたが、そのような単純な構図でないことを本書は明らかにしている。
津田は竹ノ内への思いを赤井に重ね続けた。いや、津田にとっては竹ノ内がボクシングから離れても常に一番の教え子であり、赤井は永遠に竹ノ内が抜けた穴を埋める存在に過ぎなかった。すでにプロとしてデビューしていた赤井が竹ノ内の自宅にジムにもう一度顔を出すように行かされた時、何を思ったか。
悲劇だったのは津田が赤井の実力を信じていなかったことだ。赤井のKOでの連勝はジムを立ち上げたばかりの津田にとっても思わぬ朗報だった。マッチメイクには批判もあったが、勝ち星を積み重ねた。ただ津田には結末が見えていた。「世界に挑戦させてあげたい。だが、赤井では世界に勝てない」。終わりが見えている連勝劇。それを演出しているのが津田自身であり、一番赤井の実力を知っているからこそ悩み、もがく。
津田は赤井が世界戦に敗れる前提で、赤井の代わりに「ジムの顔」になる選手の発掘と育成に力を入れ始める。後に井岡弘樹や山口圭司など世界王者を輩出した津田のジムだが、ジム創生期の当時は資金繰りに余裕はなかった。赤井の連勝が止まれば全てが止まる。ポスト赤井を探さなくては。矛盾したように映るが、赤井の世界戦よりも選手を「商品」と言い切る津田の頭には「赤井が世界戦で敗れた後」しかなかったのだ。当時のジムのトレーナーや関係者などへの丹念な取材で試合に勝っても負けても孤独だった赤井の姿が伝わってくる。
津田はすでに鬼籍に入った。50代半ばになった赤井も津田との関係にいまだに答えを見出していない。著者の取材を受けた赤井は「堪忍して下さい」と津田について多くを語らない。ただ、取材中、当時のことを思い出したのか葛藤を隠さない。
「くそっ」こめかみには太い血管が浮き上がっていた。少しの間を置いて、赤井はもう一度、罵声を漏らした。長く尾を引く嗚咽のような唸り声だった。「くそおおうっ」鈍い音を立ててテーブルが揺れた。自分の手元を見つめる赤井の瞳は、潤んでいたようにも見えた。実際、赤井は泣いていたかもしれない。
現在もドラマで時折、寂しい目を見せる赤井の原点を覗いた気がする。
ひとりのポロモーターとプロボクサーの関わりを通じてボクシングビジネスの光と影を浮き彫りにするだけでなく、幸せとは何かという根元的な問いを本書は突きつけてくる。