浮かれた雰囲気の場所にはかならずといっていいほど露店が立ち並んでおり、焼きそばを焼くソースの匂いや派手な色彩の店構えがその場の雰囲気を盛りあげている。特に縁日や祭りにとって露店は欠かせない存在であり、露店の賑やかな存在が私たちにハレの気分を味あわせてくれている。
東京下町では、これら伝統的な露天商のことを「テキヤさん」と親しみを込めて呼んでいるが、一般的には陽のあたる場所からちょっと引っ込んでいるような社会的ポジションを保ってきた存在の人たちだ。祭り前日夕方にどこからともなくふらっとやってきては組み立て式の屋台を設営し、そして祭り翌日朝にはゴミ一つ残さず綺麗に姿を消しているという神出鬼没な旅人の印象も持たれている。
そんな彼らは、一体どういう人たちで、どこからやって来て、そしてどういう商慣習のもとで縁日や祭りに参加しているのか。本書は、普段なかなか知り得ないディープな世界を人文社会学的に解説し、私たちの知的好奇心を刺激してくれる一冊である。
まず、彼らがどういう人たちかについて、本書は歴史的な変遷を交えながら解説している。テキヤの先祖は「香具師(やし)」と呼ばれる人たちで、漢方薬に用いられるお香や薬の商人だったそうだ。ただ実際に売っていたのはクジラの腸内にできる結石や果物の砂糖漬けなどで、医薬品というよりかは謎めいたものや健康食品を仕入れて販売する変わった商人という方が正しそうだ。自らのことを「愛敬見世物売薬商人」とも呼んでいたそうで、自らが売る「薬」の効果を愛敬でごまかそうとしていたのがよく伝わってきてなんだか愛着がわいてくる。
テキヤが扱う商品は、第二次世界大戦後は生活必需品、高度経済成長期以降は食品や玩具など、時代の変遷の過程で変わってきている。また、テキヤとなる人も専業的なテキヤに加えて、戦後で困窮した人々や、地方から都会に上京してきた人など、現在では多岐に亘っている。ただ、もともとはなんちゃって薬の販売をしていたこともあり、テキヤは、商売の神様である「えびす」に加えて製薬関係者(特に漢方薬関係者)と同じ職の神様である「神農」を信仰しているという。テキヤと製薬関係者が同じ職の神様の信仰を持っているとは、いやはや不思議な感じがする事実である。
テキヤがどういう人かを説明する上で、テキヤとヤクザの関係についても本書は取り上げている。著者がインタビューしたテキヤの一人は、テキヤは「7割商人、3割ヤクザ」と説明したそうだ。大半の人々はコツコツと家族総出で商売をする人たちだが、テキヤ集団は加入希望者の前歴を問わないため、犯罪者などが入り込みやすく、一部でそういう人もテキヤを生業としているようだ。「ショバ(場所)」のようにテキヤの隠語の一部は犯罪者集団の隠語と同じものも多数あり、本書でもいくつか紹介されている。
ちなみに、テキヤは何々組や何々一家などという同業者集団の一員として商いをしているのが一般的で、しかも興味深いことに、それらテキヤ集団の構成員になれるのは男性だけという暗黙のルールがあるそうだ。女性や子どもはあくまで補佐にしかなりえないとのテキヤ社会の慣行はいかにも東アジアらしいものである。
他にもテキヤ集団に特徴的な慣行を本書は網羅的に紹介しており、「へー」を連発してしまう。例えば、テキヤの世界には、見知らぬ同業者に自分が何者なのかを告げるための口上という制度がある。たしかに、映画『男はつらいよ』で、テキヤの主人公「寅さん」は「わたくし生まれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天でうぶ湯を使い、性は車、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅と発します」という口上を述べているが、実際のテキヤも似たような口上を述べるそうだ。
口上を受ける側は、口上の独特の文言、声の調子、姿勢などから、テキヤ社会のフォーマットに合致した挨拶であるかを判断し、仲間として認めれば挨拶で告げた「身分」に相応しい商いの場所が提供するという。伝統的なテキヤ社会では、口上は、緊張感につつまれた中で執り行われるしきたりで、商売の成功を左右しかねない重要な一場面である。
本書は、テキヤ内での親子分関係、一人前になるための儀式、テキヤ集団のなわばり、出店場所の配置決めなど、普段縁日で露店を楽しむときには知り得ない奥深さを解説してくれており、目から鱗の事実が一杯だ。なんだかテキヤの奥深さにすっかりはまってしまい、次回、縁日や祭りに行く際にはジロジロ観察してしまいそうである。
テキヤはどこからくるのかについては、「寅さん」のように各地を転々とするイメージがあるが、実は意外な答えが本書では紹介されている。ぜひ本書を手にとって確認してもらいたい。
より深く詳しくテキヤを知りたい方は同じ著者の『テキヤ稼業のフォークロア』がおすすめ。内藤順の書評はこちら。