ぼくが医学部を卒業したのは、1974年(昭和49年)、もう40年前のことになる。40年の間に医療の現場も大きく変った。画像機器の進歩、内視鏡を使った検査や手術、特殊な放射線治療法、いくつかの有効な薬の登場。科学技術の進歩は医療の現場でも、栄光に満ちた姿として登場している。でも医療現場全体が、40年前に比べて、比べものにならないくらい良きもの、良き場になったかと問うと、そうとは言い切れない。古き良き時代への郷愁として言っているのではない。どの時代も次の時代に取って代わられる。そういう流れの中にあるだけ、いつの時代も、と思う。40年経ってはなやかに映る今の医療現場も、10年後には更なる新しきものに取って代わられる運命にある。
変わらないものもある。厳然とある。人が病み、老い、死に直面するということは、変わりようもない。その人たちの前に医療者が立ち、何とか力になれないかとあれやこれやと考え、右往左往する姿も、変わらない。
1980年ごろ、癌の患者さんに病名告知することは、まだ一般的ではなかった。病名を告げられ、それを受け止めたと思われる特別な人のことを、「告知を受け、受容された」と、ぎこちのない力を込めて語り、「告知」も「受容」も、どこかよそ行きの言葉で宙に浮いていた。そんなころだったと思う。NHKのドキュメンタリー番組で「輝け命の日々よ」を見た。癌と共に生きる50歳の精神科医、西川喜作さんが映っていた。医療の現場で、癌を抱える患者さんにどんな風に向きあえばいいのだろうと模索しているころで(今も)、細かなことは忘れてしまったが、新鮮な感動を覚えた。西川さんは『ガン50人の勇気』(柳田邦男著、文藝春秋刊)を読み、著者に手紙を書く。「死の医学」を大切にしたいと伝える。柳田さんは共感する。交流が始まり、そのドキュメンタリー番組へと繋がる。柳田さんは西川さんに語る。宗教改革をしたマルチン・ルターの言葉として伝えられているもので、その言葉を聞いて、死のそばを生きていた西川さんは深く共鳴する。その言葉はぼくの胸にも強く刻まれた。「たとえ地球が明日終わりであっても、私は今日林檎の木を植える」。
言葉は誰かによって伝えられる。大切な言葉の伝導者が柳田さんだったことに感謝したことを思い出す。
社会の死
ぼくの仕事は医者。写真家のユージン・スミスが1948年に撮った「カントリー・ドクター」というシリーズがある。ぼくが住んでいる鳥取が田舎だからというのではないが、その「カントリー・ドクター」に憧れる。医療の現場にいたいと思う。今も思う。貢献もあり、過ちもあり、ボヤキも詠嘆もある現場。右往左往する現場が離れ難い。この本の著者は、誰よりも現場を大切にするが、現場を医療現場に限らないのが、ぼくと違う。もっと広い現場に立つ。最初に立ったのは、NHKの放送記者として、被爆地広島という現場だった。なぜ広島か、ということがこの本に記されている。二冊の写真集による。一冊は、広島・長崎の原爆被災の惨状を特集した「アサヒグラフ」(1952年8月6日号)、もう一冊は1960年の土門拳の週刊誌大、定価百円の『筑豊のこどもたち』。著者の現場は、著者ならではのレーダーに感知される数々の場、だ。そこは人間の被災があり悲惨がある。いのちの危機がある。航空機事故の現場、大災害、大震災の現場、公害・薬害の現場。そのどこにも人間の死がある。人間の死だけにとどまらず、動物、樹木や草木、ありとあらゆる万物のいのちの終わりがそこにはある。一語では捉え切れないが、社会の死である。ぼくなんか、そんな巨大な相手に迫っていく手立ても思いつかない。世界が違う。人の死に対しての感応性には共通するものが在るとしても、比べることはできない深刻さ、真剣さ、真摯さがそこにはある。急に思い出す。航空機事故が起って、一刻を争うようにテレビスタジオに招聘され、次々に入ってくる事実だけを頼りに、冷静に分析し、メディアと市民に対した著者の姿勢を。あの時の表情に、著者にしか持ち合わすことのできない何か、が現われている、と思った。
「あってはならない」という思想が、著者を貫いている。なぜそういう思いが芽生え、育っていったのかは、今ここでは定かにできないが、「使命」として、壊されていくいのちに対して、著者は立ち向っていったと思われる。許し難いいのちの破損、奪われるいのち。そのことを阻止せねばというミッションを抱えて、著者は動き続けた。誰が依頼したか、誰に依頼されたかも定かではない。何かに動かされた。社会の死に対する時、より明確になる「使命の死」。使命は、著者にとって大切な一語だと思う。
なぜ雲に
人間の心、精神は、身体とは別のもう一つの生き物だと思う。脆いし、勁いし、消えるし、生まれる。生き物だから、水分も空気も光も要る。音も色も温かさも祭りも要る。空も闇も星も、言葉も、抱き包んでくれる人や、その他の生命体も要る。
著者にとって精神を支えてくれているのは、仕事。そこで出会う人々。そこにあるあってはならない出来事。失われていったいのち。それを見守り手助けする生きた人たちの心理。それが大きな支えだろう。本を読みながらこれもかな、と思わされたものがいくつかある。ひとつは雲。雲は著者の心を映し出す。雲は自分の鏡。もうひとつは亡くなった心理学者の河合隼雄さん。事故、事件、物事、現象を著者とは全く違う方向から捉える河合さんとの出会いが、著者を根本に近いところで変化させ、深く支えた。自死で、次男を亡くした著者が、後ろめたさを覚えながら『犠牲(サクリファイス)』(文藝春秋)を書き上げる。それを読んだ河合さんの言葉が記されている。「何歳で亡くなられても、やっぱり人の一生というのは凄いということ、ほんとに重みをもって感じました。この本は非常にたくさんの人を勇気づけるかも知れませんね」。河合さんは悲嘆の中にいる迷い人を抱えるように語る。「科学の知」の中を生きてきた著者が、河合さんとの出会いの中で「神話の知」の世界へと入っていく姿をぼくら読者は見る思いだった。
著者の心に響いた河合さんの言葉は、同時にぼくらの心にも届く。「満天の星空をボーッと見ていると、いくつかの明るい星がつながって形が見えてくる。ハハアとわかってくる。因果関係ではない、ハハアと見えてくる星座、これが大事。それが物語を生み出す」。河合さんが放つ独特の、「ボーッ」「ハハア」という言葉、物語という言葉、著者にもぼくらにも深く腑に落ちる。
科学が急ぎ過ぎているところがある。人間が求め過ぎているところもある。自然を支配下に置こう、それを巡って人間同士が人間を支配下に置こうとする無知がある。科学記者として出発した著者が、なぜ雲に、人の心理に、小児の死、がんなどの病死に、多方面の人の悲惨に、科学では説明しきれないものに、自分のいのちをかけていくのだろう。
四畳半の死
この本、「僕は9歳のときから死と向きあってきた」は、死といのちについて、著者が自らの文章で構成したアンソロジーだ。いろいろな場面が、樹木で例えるなら何本もの枝となって延びている。その樹木の根っ子にあるのが、次兄、俊男さんの1946年(昭和21年)2月11日の19歳の死(著者9歳)と、同年の7月22日の、57歳の父の死(著者10歳)だろう。二人とも、結核で亡くなった。生垣の向こうに田畑が広がる。奥の四畳半に父、手前の八畳に次兄。「俊男──」と母が声をかけ、死を看取る。察知して父は号泣する。5か月後、その父が最後を迎え、誰かが「息を引き取った」と言う。著者は別の四畳半の部屋にいて動かず畳に両手をつき、首を垂れる。涙がとめどなく畳に落ちる。この二つの光景が読む者の心にくっきりと残る。
日本は終戦を迎え、国民は貧困の中にいた。終戦の前はもっと暗い雲が日本を覆い、爆弾による赤い火が方々で上った。樹木の根っ子のまわりの土壌は、黒や赤の時代の産物で構成されていた。
そんな情景を思い浮かべながらふと思った。本のタイトルの「向きあってきた」のではない何かが浮かんできた。9歳の少年は、自分の意志で次兄の死に向きあったというより、「僕の前に、次兄の死があった」、あるいは、「僕は9歳のときから死のそばにいた」、のではなかったろうか。死は宿命としてそこにあった。使命としての社会の死に関わる姿と、宿命としての死から逃げることなく、そのそばにいる姿とは違うように思う。人は、能動的な態度で死の前に立つこともあるが、受身という態度をもってしか死の前に立てないこともある。また考えた。宿命の死があればこそ、使命の死へと歩み出せる。使命の死の中を走る中で、宿命の死に出会う。使命も宿命も一本の線で分離できるものではなく、揺れ動き、混じり合うものではないか。向きあった死もあり、ただそばにいただけの死もあった。それらが一つの輪を作るのではないかと、著者は教えてくれている。
著者は国民から、社会正義を訴えることを誰よりも容認されている。多くの人がこの人になら、と自分の悲しみや怒り、辛さを語り始める。過誤や罪についても冷静な指摘ができる人だが、人を追い詰め、裁く、という方法は取らない。巡礼する阿修羅像を思い浮かべた。阿修羅には何本もの手が具っている。それぞれの手の先には、それぞれの死がある。その手で死の数々に接しながら、阿修羅の顔は崇高に映り、また苦悩にゆがんでいく。阿修羅は別の手で、新たな死を握かんでいく。
死はあり続けた。今もある。これからもあり続ける。日本は、多死社会に入っていく。死がどんどん空洞化していく気がする。空洞化をどう阻止するのか、できるのか。畳の上で涙を落とした少年の姿を何度も思い浮かべ、自分の中にもある、使命と宿命の死を感じながら、そのことを考え続けた。
(2014年2月、野の花診療所医師)
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