著者お二人のキャラクターを踏まえれば当然だが、非常に面白い(食事しながら読んでいた時は、思わず食べ物を何度も噴き出したほどだ――誇張ではなく)。
私事で恐縮だが、私は本を最近はほとんど読まない(読むのは、科学論文くらいである)。つまらないからである。分かりきった話や意味不明な話、あるいは冗長な話が多くて、読むのが苦痛、というか、それこそ面倒くさい。主要新聞の社説はほぼ毎日読むが、それは「つまらなさ加減が面白い」という逆説性のせいである。
しかし、この本は(逆説的ではなく)例外的に面白い。主要新聞の社説と真逆にある、といってもいい。
「自分たちはオピニオンリーダーであり、正論を述べている(さらには、自分たちの意見がマジョリティになるべきである)」といったメンタリティが行間に表れていて、その実、内容は陳腐で浅薄、という傾向が強いのが社説である(たまに良い社説もあるが)。
本対談は、そういった社説とは真逆にあって、お二人には「オピニオンリーダー意識」も「マジョリティ意識」もなく、自由闊かつ達たつに現代社会の諸問題を話し合っている。そういう対談本は他にもあるが、大抵はつまらない。社説みたいに陳腐で浅薄だからだが、この対談本は(くどいが)とても面白い。一見したところ(類書と同じように)自由勝手に話し合っているだけ、という印象をもつかもしれないが、実は奥がとても深く、オリジナリティにあふれている。もちろん、お二人のキャラクターがそもそも面白い、ということも大きいが、それだけではないのである。
「奥の深さ」は、人間とその社会の本質を見抜く力がベースにあって現れるものである。
池田先生は、日本における最高レベルの生物学者なので(そして人間は生物の一種なので)、当然ながらそういう力を持っている。
生物学者の中には専門的なことしか興味が無く他のことはよく分からない、という方も多い。しかし、池田先生は本来の生物学者として、生物としての人間とその社会を根源レベルで洞察する力を持っているため、社会問題にもご自身の科学的かつオリジナリティにあふれた考えを展開できる。なので、池田先生に「新聞記者的な人物」がインタビューしても、面白い話が聞けるかもしれない。
一方のマツコ・デラックスさんは、学者ではなく、「女装嗜好の強い同性愛者」で、ご自身を「同性愛者というマイノリティの中のさらなるマイノリティ」と捉とらえている。
マジョリティの中にいると、そのマジョリティの意見や「空気」に無意識にも同調してオリジナルな考え・意識を持ちにくくなることが科学的に実証されている。マツコ・デラックスさんはそうではなく「マイノリティの中のマイノリティ」なので、オリジナルな考えや意識を持ち易やすい。マイノリティだからこそ見える景色もある。もちろん、それだけで「奥の深さ」が伴うわけではない。理解力を含めた「頭の良さ」が必須になるが、この対談でも明らかなように、マツコ・デラックスさんはとても頭が良い方で、かつ、鏡のようである。だからこそ、社会の清濁を映し出しつつ、本質を見抜く力を身につけている。だから、「新聞記者的な人物」がマツコ・デラックスさんにインタビューしただけでも、やはり、面白い話が聞けると思う。
そういったお二人が対談した以上、面白くないわけがないのである。「新聞記者的な人物によるインタビュー」でも面白くなるはずなのに、まさに相乗効果が見事に働いている。絶妙な組み合わせ、というべきで、こうした面白話を読める機会はめったにない。
本当に「絶妙な組み合わせ」である。仮に池田先生が医師や物理学者だったとしても、マツコ・デラックスさんなら面白い対談になったかもしれないが、池田先生は生物学者である。生物学では個体差や変異を重んじる。あるいは前提とする。なので、どんな人にも偏見など持たない。変異をむしろ良い意味で面白がる。「めんどくせえ」が口癖の池田先生が対談をした理由も頷うなずける。
マツコ・デラックスさんを「変異」というのは失礼だが、「マイノリティの中のマイノリティ」という意味において「変異個体」、端的に言えば「変人」である。池田先生は、その変人性を活いかしながら対談している。
池田先生も「変人」である。日本を代表する突出した生物学者、という点だけでも「マイノリティの中のマイノリティ」なので私に言わせれば、変人と言えるが、キャラクター的にも変人である(先生の変人ぶりは個人的に数多く体験しているが、本書でも端的に表れている)。マツコ・デラックスさんが、この対談の中でTVなどでは窺えない心情(苦悩を含めた)を吐露しているのは、池田先生の変人性との共感現象が起きたせいではないかと思う。
こうした変人同士の対談だと、それこそマイナーで特殊な話になってしまうこともある。しかし、本対談ではそうなっておらず奥が深いのは、「変人の普遍性」が基底に流れているせいだ。
人間は生物であり、個体変異は人間の前提ないし本質である。その意味で、全すべての人が変人である。
ところが、マジョリティの中では同調性が重んじられるせいもあって、変人性が疎うとまれたり、自分で変人性を抑圧したりしてしまうことが往々にしてある。本書を読むことで、おそらく全ての人がほっとしたり清々しい気持ちになったりすると思うが、その理由は「変人の普遍性」にあるはずだ。
誰だって「変人」なのである。それが生物としての人間の普遍性である。変人でいてもいい、変人としてオリジナルな考えをもっていい、変人として行動していい。そして、全ての人がそうなることが人類の多様性を生み、そして、多様性こそが人類進化の原動力であることを再確認してほしい。そういったメッセージも本書には込められている。
とはいえ、変人として生きるのは実は大変である。「全うな人」として生きた方が楽かもしれない。しかし、人生は一回限りであり、誰だって死ぬ。自分の変人性を多少なりとも出さないで死ぬのはもったいないではないか。そのために重要なことの一つも本書で強調されている。「自分なりの目的をもって自分の頭で考えること」である。誰でも変人であると言っても、この点が無ければ、人間として無意味になってしまいかねない。真の変人は、本来、人類的な意味をもつ。その意味が出るためには、この点はとても重要である。
お二人とも変人である。そして、本書でも明示されているように、お二人とも自分なりの目的をもって自分の頭で考えている。だから、大きな意味をもつ変人として生きられるのである。そして、本書がとても面白い大きな理由もそこにある。本来変人であるはずの全ての方に是非一読して頂きたい――「ボーっとするのはいいこと」や「必ず壊れるのが人工物の定義」といった科学的な知見や本質も随所でさりげなく得られるし。
最後に……。またしても私事に渡って恐縮だが、私は人をめったに好きにならない。尊敬することも稀まれである。ところが、池田先生は昔から尊敬していて、大好きである。マツコ・デラックスさんも大好きである。なぜ好きなのか、自分なりに考えたら、お二人には、とても優しい、という共通点があるからに違いないという結論に達した。お二人とも純粋で、その点も好きだが、滅茶苦茶優しいのである。某TV番組に出演することがあるが、その出演を決めたのは「池田先生が出演されているから」という理由が大きい。そのTV番組でマツコ・デラックスさんと知り合ったが、すごく優しくて驚いた(体型よりも、である)。気遣いも半端ではない。
変人として生き続けると非常に優しくなるのでは、という仮説を私は密ひそかに抱いている(検証は難しいけれど)。
(2014年3月、人間性脳科学研究所所長)
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