ゴールデンウィーク前、締め切りが立て込んでいる中、大阪の文楽の観劇を強行した。人間国宝、竹本住大夫引退興行の第1弾であり、めったに掛からない「菅原伝授手習鑑」の通し舞台だったからだ。ちょうど直前に菅原道真と藤原時平の小説の文庫解説を書いたばかりで、筋書きが頭に入った状態で改めて通して観てみたかったのだ。理不尽だと思っていた「寺子屋の段」が理解できて、初めて松王丸の慟哭が胸に響いた。
大阪文楽劇場は正月公演を含めて年に数回、足を運ぶがこんなに混んでいるところは見たことがなかった。大阪市長と真っ向から戦った住大夫さんの舞台を、一度は見ておこうと思うのか、当日券や幕見席のチケットを買う人で長蛇の列。私は茶屋に席をお願いしていたが、そこも満杯の状態で、いつもは静謐な劇場が興奮状態にあった。
病気から復帰され、また、元の迫力あるお声が戻ってくると信じていたが、やはり年齢には勝てず、満89歳、68年の文楽大夫を自ら退くことを決めた住大夫さんは、どっしりと構え堂々としたお声で演じきった。文楽を見始めて10年余りの新参者だが、多くの公演が頭をよぎり、こみ上げてくるものを抑えられなかった。
さて、本書は次世代を担う人形遣い、桐竹勘十郎と吉田玉女のふたりによる文楽案内本である。ふたりは昨年、還暦を迎えた同い年。60代を迎え、円熟度を増していくスターである。とくに玉女さんは来年、師匠である吉田玉男の名を継ぐことが決まっている。中学生の時に出合い、そのまま友人としてライバルとして過ごしてきた二人の対談は、文楽が、人形遣いが好きで好きでたまらない、という匂いが立ち上ってくる。それぞれ、お気に入りの演目が違っているのも興味深い。
このほか、同じように次の時代を任される技芸員、豊竹呂勢大夫、豊竹咲寿大夫、三味線弾きでは鶴澤燕三、鶴澤清志郎、人形遣いの吉田一輔が文楽にまつわる史跡案内や得意のマンガなどで花を添える。
中学や高校の修学旅行などで文楽を初めて見た人は多いと思う。その頃の印象で「何を言っているのかわからない」「ストーリーが理解できない」「ひたすら眠い」と思っているかもしれないが、年齢を重ねるとともに知識も増え、改めて観ると嵌ってしまったという人は驚くほど多い。かく言う私もその一人で、40歳で初めて観て、その面白さに今ではすっかり追っかけである。
5月東京公演が、本当に最後の住大夫の浄瑠璃を聞く最後になる。発売初日にインターネットのサーバーがダウンするほどのアクセスがあり、売り切れ状態だからこの公演を観るのは難しいかもしれないが、ぜひ一度、劇場に足を運んで、生で経験してもらいたいと思う。
5月10日、いよいよ開幕である。
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「文楽って浄瑠璃って、よく出来てまっせ、ええもんでっせ」という声が聞こえてくる。
解説を書きました。時平がいいもんに描かれているが、一連の騒動がどういうものだったかを詳しく知ることができる。