マグロは時速100キロでは泳がない。マンボウとペンギンは同種の泳法を採っている。アホウドリは46日で世界一周するし、世界一のろい魚はサメである。
読み進めるうちにオロオロしてきてしまう。マグロといえば超高速で海の中を弾丸のように泳いでいくイメージがあったし、とぼけた顔のマンボウがまさか水族館のアイドル、ペンギンと同じ泳ぎ方をしているなんて想像できないし、地球一周4万キロを46日で周る旅程なんて歩くしかない人間には不可能なわけで一体どんな旅路なのやら、更にはサメ、君は大海原のハンターじゃなかったのか。
本書『ペンギンが教えてくれた物理のはなし』は、バイオロギングを用いた生態学研究の最前線を生き生きと伝えてくれる、非常にエキサイティングで臨場感溢れる一冊である。著者、渡辺佑基氏は現在国立極地研究所の助教授。東京大学農学部在学中に極地研究所の内藤靖彦氏に出会ったことでバイオロギングの扉を叩くこととなった。内藤靖彦氏といえば、アザラシやペンギンなどの生態調査で有名なバイオロギング手法の第一人者である。渡辺氏は、本書を5章に分け、「渡る」「泳ぐ」「測る」「潜る」「飛ぶ」とそれぞれのカテゴリで、自身の関わったバイカルアザラシやマンボウ、アデリーペンギン、ニシオンデンザメ、ワタリアホウドリやケルゲレンヒメウの調査研究のドキュメント、また各国の研究者の成果を軽妙に語る。そしてその中でバイオロギングの歴史、その手法の重要性や生態学における役割を伝える。
バイオロギングとは、動物たちの体に記録機器を付け、その行動や生態を調査する研究手法のことで、特にその生態を目視することの難しい鳥類や海洋生物の研究に際立った功績を残してきた。その始まりは生理学の巨人、ショランダーに始まる。なぜアザラシは長時間息を止めていられるのか。その疑問から始まったアザラシの潜水に関する研究は動物の体における心肺機能の変化「潜水徐脈」を発見した。更に進められた研究の中で、ショランダーは測定機器を直接アザラシに張り付けて潜水させる手法を採った。これがバイオロギングの始まりだという。「人間がアザラシを観察するのではなく、アザラシにアザラシを観察させればいい。」その発想の転換こそが端緒だった。1940年、日本が太平洋戦争に突き進んでいた時代、遠いノルウェーでは生態学の新手法が産声を上げた。その後バイオロギングに支えられた生態学は急速に裾野を広げ発展し、私たちが持っていた生き物たちの世界に対する認識を鮮やかに塗り替え続けている。
マグロが時速80キロで泳ぐという通説は、バイオロギングの始まる前に行われた大雑把な測定に尾ひれがついて広まったもの、と渡辺氏は言う。マグロの平均時速は7~8キロ、予想される最大時速でも20~30キロだという。数々の海中生物の速度を比較し、「世界一のろい魚」はサメの仲間、ニシオンデンザメだとする。バイオロギングによって動物の生態はより正確に把握されるようになってきている。浮き袋のないマンボウがどうして海中で沈まずにいられるか、泳法と生態と身体構造が語られると、なるほど、と膝を打つ。その背びれと尻びれによる泳法と、ペンギンのフリッパーによる泳法との共通性が示されると、違う種類の動物を同じ俎上に載せることのできるバイオロギングの可能性を感じる。ワタリアホウドリの滑空飛行の謎を解いていく過程は、上質のミステリを読んでいるよう。ミュンヘン工科大学のGPS技術の専門家がワタリアホウドリの飛行経路を特定するために特殊なアルゴリズムを使ったオリジナルのGPSを設計し、三次元的に再現された飛行経路は遂にその滑空飛行の謎を暴く。バイオロギングは工学の進歩なしには語れない。技術が進歩すればするほど、それを取り入れてバイオロギングもまた発展していく。
そして渡辺氏は考える。観察と計測によって動物たちの生態を明らかにするだけではなく、その先に普遍的な法則を見出すことが出来るのではないか。動物たちの体のメカニズムや行動の詳細を明らかにすることで、その背景にある物理的、生理的なメカニズムを追及することが出来るのではないか。「生態学と物理学を化学反応させる」、そんな野望に、読者は興奮させられる。生命と進化の謎に、フィールドワークを中心とした生態学が挑んでいく。それは本書の中で結実しきってはいない。しかし、きっと渡辺氏はその研究の傍ら、私たち一般の読者にもわかる形でその挑戦の途中経過を教えてくれるだろう。
渡辺氏が語る極地生活の断片や、定置網漁の様子、孤島での調査旅行。動物たちの生態の合間に少しずつ挟み込まれたこぼれ話は、どれも微笑ましく、魅力的なものだ。科学は生きた人間が生み出してきたものなのだ。研究者は遠い世界の住人ではなく、すぐそばにいる。そんな当たり前のことにも気付かされる。