本書を読んで僕は、情報と経験の差を思い知らされた。僕たちは、津波の映像を見た。瓦礫の山の写真を見た。被災者たちの肉声を聞いた。他にも、様々な形で僕たちは、東日本大震災についての情報に触れた。しかし、当然のことながらそれは、経験とはまるで違う。
経験とは「共有できないものだ」と強く感じた。これは、被災者と被災者以外の人との共有の話だけではない。被災者同士であっても、個々人の経験はきっと共有することは出来ないだろうと感じた。
僕たちが情報に触れる時、それはある方向を持っている。写真や映像であればそれらが撮られたフレームや撮影者の意図が、肉声であればどんな経験をした個人の話なのかという背景が、そしてその話をどう切り取るのかという編集者の意図がある。僕たちは、その共通した方向性を持つ情報に触れるので、その方向性自体に賛否はあるにせよ、その方向性を共有することは出来る。
しかし経験は、経験した個人によってのみ、その方向性が意味を成す。個人の経験は、個々に別々の方向性を持つために、同じ現場にいて、同じ光景を見ていても、同じ経験にはならない。
こんなことは凄く当たり前のことなのだと思う。でも、その当たり前のことを実感する機会は、そう多くはないだろう。何故なら、同じ現場にいて、同じ光景を見ている場合、それがまったく異なった経験になるという状況は実はあまりないはずだからだ。
しかし東日本大震災は、その日常感覚をあっさりと奪った。どこにいて、何を見たのか、というよりもさらに、『誰が』という個の要素が経験に非常に大きな差を与える、とんでもない出来事だった。本書は、そういう部分を実にうまく掬いとっているように僕には感じられた。著者が、石井光太という視点を極力はずし、様々な人達から話を聞くことで著者自身が再構築した人々の視点で釜石を語る。様々な視点の人間によって、様々な『経験』を語らせることで、本書は、東日本大震災が一瞬で奪い去ったその日常感覚を実にくっきりと浮き彫りにする。(※文庫版あとがきはこちら)
北九州で実際に起こったおぞましい事件をモチーフにした、誉田哲也らしい残虐さと軽妙さを兼ね備えた小説だ。僕は、現実に起こった事件のノンフィクションである「消された一家」(豊田正義 新潮文庫)を以前読んだことがある。現実の事件と比べれば、本書での描かれ方は、相当マイルドになっていると言えるだろう(とはいえ、残虐な描写は一切受付けない、という方は手に取らない方がいいかもしれない)。この、現実の事件と比べてマイルドになっているという点が、「消された一家」を読んでいる僕としては、なかなか評価に困る点ではあった。やはり、現実の事件の衝撃には敵わないからだ。
その一方で、こんな表現を使っていいのか分からないけど、これだけアクの強い現実の事件を、よく物語に落としこむことが出来たな、という風にも感じた。元になった事件は正直、フィクションに落としこむには規格外すぎる。しかし本書は、誉田哲也の持ち味である軽妙さを、この残虐な物語と実に見事に融合させていて、こんな評価の仕方は失礼かもしれないが、きちんと「『読める』物語」になっている。基本的な設定や事件そのものの推移などはかなり忠実に取り入れつつ、物語に落としこむ上での改変が見事に嵌っていて、現実をベースにした物語、という意味で非常にうまく出来ていると思った。
内容には敢えてほとんど触れないことにしよう。事件を知らない人には是非、この異様で理解し難い事件を丸ごと受け取って欲しいと思う。
「消された一家」を読んだ時も感じたが、僕は本書を読んで不安になった。自分が、この事件の主犯の男と、とても近いのではないか、と思えてくるのだ。自分が、人間の心を持ってないなと感じる瞬間は、時々、あるのだ。
『贋作とは人類史上二番目に古い職業であるという』
ピカソやゴッホの名前を知っていても、「ヒェールト・ヤン・ヤンセン」の名を聞いたことがある人はそう多くはないだろう。当然だ。彼は、【20世紀最大の贋作事件】のまさに中心となる人物であり、ピカソ・ミロ・マティスと言った絵画数千点を偽造した男であり、つまり、犯罪者だ。
『でも、「魔法の杖効果」が持つ本当のスリルを味わってしまったのです。画家のあるべき署名を、あるべき位置に走り書きすると、突如として扉が開かれる。自分でも、「本物」のピカソ作品を描いたなんて考えると、気違い沙汰だと思いますよ。でも彼の作品総目録を開くと、必ずそこに私の絵がある』
彼は、著名な鑑定家や資産家を巻き込み、彼らの眼を巧妙に欺きながら、世間の常識が通じにくい美術の世界をゆうゆうと泳ぎまわった。彼の裁判は、開廷するまでに6年も掛かったという。何故か。警察が数多くの贋作品の隠匿を発見したにも関わらず、被害者が誰も証拠提出に応じなかったからだ。美術の世界に生きる者は皆、贋作など日常的に出回っていることを知っている。本物か偽物か。そんなことは、彼らにとってはどうでもいいのだ。
『贋作の多くは人から人へと売り渡され、その過程でどんどん真作へと変身していく。売られる回数が多ければ多いほど、画廊に飾られている期間が長ければ長いほど、その作品は正真正銘の本物となっていくんです』
時代を翻弄した一人の贋作師の生涯を丹念に追うことで、欲望渦巻く異様な美術の世界を炙り出していくノンフィクション。
本書は、高校を舞台にしたミステリであり、「ミステリ小説」として様々な評価をされている作品だと思う。しかし僕は本書を、あえて「青春小説」として押し出したい。もちろん、ミステリ的な部分も好きだ。しかしそれ以上に、青春小説としての側面に大いに惹かれるのだ。
主軸選手である網川が孤立し始めた女子バスケ部をメインの舞台とし、椎名と樋口という校内随一の異端児があちらこちらへと首を突っ込んでいく。高校という箱庭の中に、様々な鬱屈や支配が隅々まで散らばる。普段それらは、別々に存在している。しかし、校内で様々な出来事や事件が起きることで、それらの鬱屈や支配が徐々に引き寄せられ、一箇所に固まっていく。箱庭の中のプレーヤーが、個々人の理屈で様々に動くことで、少しずつ鬱屈や支配が解体され、あるいは露見されていく。その過程が実に見事だ。箱庭の中で渦巻く、そこでしか通じない論理が、その箱庭の中にいるしかない人間を縛り付け、またその一塊が、別の何かの引き金になりもする。
椎名と樋口に特に惹かれる。変人が大好きな僕としては、この二人の、まったく異質な行動原理に端を発する様々なアクションには、痺れるような快感を抱く。鬱屈を抱えたままでしか生きることが出来ない若者たちの、それでも日々どうにか前に進んでいくしかない諦念みたいなものに、どうにも吸い寄せられてしまうのだろう。
1983年、今や世界遺産となった富士山の割と近くで生まれる。毎日どデカい富士山を見ながら学校に通っていたので、富士山を見ても何の感慨も湧かない。「富士宮やきそば」で有名な富士宮も近いのだけど、上京する前は「富士宮やきそば」の存在を知らなかった。一度行っただけだけど、福島県二本松市東和地区がとても素晴らしいところで、また行きたい。他に行きたいところは、島根県の海士町と、兵庫県の家島。中原ブックランドTSUTAYA小杉店で文庫と新書を担当。
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