『ワーグナー(上下)』by 出口 治明
ブラームス派であるにも関わらず、昔からワーグナーは何故か気になる存在だった。一言で言えば、癇に障るのだ。完成までに4半世紀を費やした「指輪」を含めほとんどの作品も観た。それでも好きにはなれなかった。第1、よく分からなかったのだ。でも、僕の大好きなトーマス・マンやプルーストがワーグナーを評価しているのは何故だろう。著名な音楽学者マルティン・ゲックの新作を読めば、ひょっとしたらワーグナーのことがよく分かるようになるかも知れない、そう思って本書を読み始めた。
本書は14章から成る。その内13章がロイバルトからパルジファルに至るワーグナーの作品を中心に語られる。著者は、序で次のように述べる。「私はワーグナーの策略を見抜いてみたい気持ちをもう抑えられなくなっている」また同時に「私はワーグナーの策略を見抜くのではなく、私自身や私の時代の策略を見抜こうとしている」と。ワーグナーは9千通を越す書簡を始めとして多くの発言を残したが(妻コージマも膨大な日記を残している)、それらは「宝箱でありながら、同時に仕掛けられた罠でもある」。「人生と作品とを線引きすることを堅く拒んだ」ワーグナーの伝記は、ワーグナーの作品の精緻な分析なくしては、そもそも成り立たないのだ。それが本書の立場である。従ってルートヴィヒ2世やコージマとのスキャンダラスな関係も本書ではほとんど触れられることがない。
本書には楽譜が頻繁に挿入される。作品を技法に基づいて丁寧に紐解こうとすれば理の当然だろう。しかし、悲しいかな、僕は楽譜が読めない(吉田秀和全集を愛読していた頃も同じ悲哀を味わったものだった)。しかし、1章ずつ読み進めていくと、少なくともワーグナーの人生と作品が不可分であることだけはよく分かる。例えば、「トリスタンとイゾルデ」は当時のワーグナーのミューズ、マティルデ・ヴェーゼンドンクの存在なくしては生まれ得なかったであろう。本書はまた、各章の終りに、メンデルスゾーンからマーラーに至る13人の著名人とワーグナーの関係を論じた小論を収めている。ワーグナーは必ずしも、彼らと良好な人間関係を築けたわけではなかったが、この13人との関係の中でワーグナーの複雑で狷介なそれでいて世俗臭もぷんぷんする人物像が浮かび上がる仕掛けとなっている。「革命家ワーグナーに満幅の共感を覚えた」エイゼンシュテインの挿話はとりわけ興味深かった。(ワーグナーに)魅了された人は、「往々にして貶める人々よりもずっと深く、彼の作品を熟知している」これは、ワーグナーに限らず、何事についてもその通りであろう。
さて、本書を読み終えて、僕のワーグナー理解は深まったのだろうか。深まった部分があるようにも思えるが、その分、新たな謎が付加されたような気もする。ワーグナーのテーマは決して「滅亡による救済」のような安易な一言で片づけられるものではない。そこにはひょっとしたら何もないのかも知れない。「ワーグナーの音楽では純粋な迫力と純粋な音響が決め手となる」。ワーグナーの音楽は「音響による幻覚」であるかも知れないのだ。ワーグナーを生んだ当時の思想的、文学的背景と音楽上の技法を克明に追求した力作だと思う。
出口 治明
ライフネット生命保険 CEO兼代表取締役会長。詳しくはこちら。
*なお、出口会長の書評には古典や小説なども含まれる場合があります。稀代の読書家がお読みになってる本を知るだけでも価値があると判断しました。
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