文を書いている人なら、おそらく、自分の書いたものを、花切れのついた本として出版したいと思っている人は多いにちがいない。
花切れって、なに?
以前、HONZで(私が知らない)「花切れ」を語った時のメンバーの目の輝きといったら、そりゃもう、プリキュアもびっくりであった。そして今回本書を読んで、遅ればせながら私も「書物」、モノとしての本の世界に俄然興味がわいてきたのだ。
花切れ(端布)とは、本の背中側の最上部、本棚に並んでいる本を取り出す時に指をかけるところ、その奥の、隠れた場所につけられている布や編み物のことを言う。その起源は中世以前までさかのぼり、元々は、木でできた「表紙」と、羊皮紙に書かれた「本文」を繋ぎ止める綴じ紐だった。もちろん手編みである。そこから、あの小さな数センチメートルの世界に、コプト様式、エチオピア様式、ギリシャ様式、イタリア・ルネサンス様式、フランス様式などの流儀が発生していく。今でもヨーロッパでは、一点ものの作品の革装本を作るときには、手で花切れを編むという。製本家によっては網目が正しくならんでいるかどうかを虫眼鏡で調べる人もいるそうだ。
ということは、つまり、今でも、「製本家」という職業が立派にあるのだ。じつは著者自身、フランスの「書物中央校」に4年間留学し、毎週パリからブリュッセルに通って製本家ウラジミール・チェケルールに師事したという経歴の持ち主だ。本書は、著者が15年間に様々な場所で書いてきた小論をベースにしたものであり、「25歳頃から40歳頃までに身につけた知識を、一冊の本にまとめた」ものである。選書としては新刊だが、小さな書店から単行本として出版された本の、13年越しの復刊となる。最近になって、SF作家の瀬名秀明さんが朝日新聞で取り上げてくれたり、著者の本をデザインした桂川潤さんが愛読していたということが判明したりして、改めて出そうという話になったそうだ。もともとはB5版で5000円という本だったが、図版が1つ削られたくらいで、旧版からの中身の変更はほとんどない。
本書は年代順にまとめられており、製本技術のみならず、本の歴史を知ることができる一冊である。紀元前から整理された書物の歴史は、Webや電子書籍が混在している現在の状況を踏まえ、大変興味深いものであった。たとえば、グーテンベルクが『四十二行聖書』を発行した時には、180部が紙に印刷され、30部が羊皮紙に印刷された。著者は、この時代が、ちょうど紙への移行期だったのだろうと推測する。中国から1000年以上かけて伝わった紙と、機械で印刷が自動化された時期が微妙にオーバーラップしている頃、書物はどのような変貌を遂げ、どのように受け止められたのか。紙の原料にはぼろ切れ(布)が使用され、街にはぼろ布を収集する業者が登場した。パルプを原料として紙が大量生産されるようになるのは18世紀になってからだ。産業革命以降には、大量生産されるようになった本に反発した、ウィリアム・モリスのような人物が出現した。彼は自宅の近くに私家版の印刷所「ケルムスコット・プレス」を設け、紙を選び、活字を作り、装丁にこだわり本を作る。
ケルムスコット・プレスを手にとって開いてみると、書物とは読むだけのものではないという感が強くなる。この本は、書物とは眺めたり、触れたりするものであることを語っている。そうでなければ、モリスはあんなに徹底して紙などの材料について腐心しない。ここに、書物が「物」であることの証がある。
本書はケルムスコット・プレスの出版物と装丁の説明に一章を割き、これが大正から昭和にかけて、壽岳文章などの日本の愛書家に影響を与えたのは間違いないとする。筆者が、本のたたずまいには歴史と文化が反映されるから、壽岳文章が作った向日庵私版本『書物』は、革装本より、特漉き和紙装本のほうがずっと良いと述べているのが興味深い。
もちろん、花切れだけではなく、本書には、モロッコ革や、17世紀フランスの謎の製本家ル・ガスコンの物語、天金とテンペラ画の関係や、マーブル紙と墨流しの話など、「書物」(中身ではない)のおもしろい話がたくさん書かれている。9世紀の祈祷書や、17世紀の革装本のなんときれいなことか。未来の人が今の時代のものを見たら、なにをきれいだと思うだろうか。
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