本書は、国民的大ベストセラー辞典の「生みの親」に光をあて、これまで注目されてこなかった国語辞典の誕生秘話を解き明かす一冊だ。
合わせて累計4000万部に迫る驚異的な発行部数を記録する『新明解国語辞典』と『三省堂国語辞典』。辞書として最も有名な『広辞苑』の発行部数が1200万部であるから、これら二冊はそれ以上ないしは同等の部数を誇っていることになる。驚くのは、この隠れた大ベストセラーがなんと東大で同期生、山田忠雄(山田先生)と見坊豪紀(ケンボー先生)によってそれぞれ編纂されていることだ。同期生から辞書界の二大巨星が生まれることになるとは、なにか運命のいたずらを感じざるをえない。
二人は、もともと力を合わせて『明解国語辞典』という国語辞典を作っていた。ところが、ある時期を境に決別し、それ以降、お互いに一切口をきかず、それぞれ同じ出版社から全く性格の異なる二冊の国語辞書を生み出すこととなる。二人の編纂者の間に何が起こったのか、本書は、そんな「昭和辞書史の謎」を初めて解き明かし、業界内の人間ドラマをあぶりだしていく。国語辞典を題材とする書籍はこれまで少なからず出版されているが、業界を席巻した同期生二人の人生に焦点を当てているのは本書だけであろう。
辞書界の革命児こと山田先生が編纂する『新明解国語辞典』と、戦後最大の辞書編纂者ことケンボー先生が編纂する『三省堂国語辞典』。この二冊は、同じ出版社がほぼ同じ時期に出版しているにも関わらず驚くほどに性格を異にしている。私たちはつい「辞書なんてどれも一緒。どうせ同じことが書いてある。」と思いがちであるが、この二つを読み比べると国語辞典も他の出版物と同じく「文は人なり」で、作り手の思いや人格がにじみ出ることがよく分かる。
例えば山田先生が編纂する『新明解国語辞典』は【恋愛】をこう説明する。
(『新明解国語辞典』三版)
日本を代表する国語辞典が「恋愛=合体論」を語るという、なんとも驚くべき内容である。一方のケンボー先生編纂する『三省堂国語辞典』は、簡明にして過不足ない解説をしており、これぞ私たちが思い描く辞書の姿だ。
山田先生の強い個性が表れているのは【恋愛】だけでない。今や日本で最も売れる国語辞書『新明解国語辞典』に、なんとグルメ番組のコメントのような主観解説が並んでいるのである。
はまぐり【蛤】食べる貝として、最も普通で、おいしい。(『新明解』三版)
おこぜ【鰧】ぶかっこうな顔をしているが、うまい。(『新明解』三版)
思わずふいてしまうのは【ごきぶり】の解説である。ごきぶりを触ったものにしか書けない語釈が綴られている。
山田先生の語釈は主観的だけでなく、時に規範的でもある。中でも【読書】の解説は痛烈だ。本を読む際の心もちや体勢次第では本当の意味での「読書」に当たらないという。
未だに語り継がれる有名な語釈は【凡人】で、もう身も蓋もなく、ぐうの音も出ない。
ちなみに、もう一方の『三省堂国語辞典』の【読書】と【凡人】の解説はこうだ。
ぼんじん【凡人】㊀あたりまえの人。㊁つまらない人(『三省堂国語辞典』二版)
主観的・長文・詳細・規範的な『新明解国語辞典』と客観的・短文・簡潔・現代的な『三省堂国語辞典』、こうした二冊の違いは編纂者の山田先生とケンボー先生の言語観や世界観の違いが反映されているといって過言でない。
編集方針から記述式まで似ても似つかぬ二人であるが、既に述べた通り、ある時点までは協同して一冊の辞書を作っていた。二人の編纂者の間に一体なにが起こって決裂に至ったのか。当の二人は既に亡くなっており、生前に多くを語っていなかったので著者の調査は難航する。ところがある日、著者は「昭和辞書史の謎」を紐解く鍵を、山田先生が晩年に刊行した『新明解国語辞典』第四版の【時点】ということばの用例から見つけ出す。第四版であらたに加えられた用例である。
(『新明解』四版)
著者はこの妙に具体的な日付を疑問に思い、この日付を軸として関係者へ緻密なインタビューを繰り返し、「昭和辞書史の謎」に迫っていく。著者による入念な調査の結果、遂にこの「一月九日」は昭和四七年(1972年)の一月九日であることが判明、この日は『新明解国語辞典』初版の完成を祝う打ち上げが行われた日であった。
この打ち上げで起こったことを調べると、なんと山田先生がクーデターを起こし、それまで編集主幹であったケンボー先生を引きずり下ろすという事件が起こっていたことが判明する。二人で共同していた『明解国語辞典』の改訂版発行を15年以上もの間先延ばしし続けたケンボー先生に対して山田先生は苛立ちをおぼえ、「見坊がやらぬなら私が」との意気込みで自分の理想に沿った辞書を新たに発行することになったのが、決裂の主な要因だったようだ。
一瞬「なんだそんなことか」と思いきや、本書を読み進めると「昭和辞書史の謎」の奥には、両者のことばの勘違い、辞書界の不祥事、出版社上層部の秘められた思惑、さらにその出版上層部を動かしたとある人物の一言など複雑な事実が絡み合っていることが判明していく。まるで上級のミステリー作品を読んでいるかのようなストーリー展開である。事実は小説より奇なり、とはまさしくこのことだろう。あまり紹介しすぎるとネタバレになるので、続きはぜひ本書で。
辞書関係で話題になったといえば本屋大賞を受賞し、映画にもなった。『舟を編む』
『新明解国語辞典』のようなユニークな辞書をアツく紹介するのは『国語辞典の遊び方』
ぜひこれを機に『新明解国語辞典』(第三版)を。