『いにしえの光』by 出口 治明
不思議な読後感の残る小説である。ストーリー自体は、一見したところ、込み入っているようにも見えるが、本質は他愛もないと片付けてしまってもいいかもしれない。最愛の娘キャサリン(キャス)を亡くした初老の舞台俳優と、その妻がいる。ポルトヴェーネレ(僕は初秋に訪れた記憶がある。印象に残る美しい町だ)でキャスは自ら命を絶った。子どもを身籠っていた。
老俳優に初めての映画出演の話が舞い込む。胡散臭い文学者アクセル・ヴァンダー役として。共演者は、人気女優ドーン・デヴォンボートである。精神が不安定なドーンは、自殺未遂事件を起こす。彼は彼女を連れて逃避行(キャスの死出の旅の再現)のようにポルトヴェーネレを目指すのだ。アクセル・ヴァンダーがキャスの子どもの父親ではなかったかという一抹の疑念を抱きながら。以上のストーリーが、一人称で淡々と紡がれる。
しかし、この不思議な物語の大半を占めるのは、実は上述のストーリーではないのだ。この小説においては、ストーリーは、あくまで「狂言回し」の役割を果たしているにすぎないように思われる。清冽な光彩を放ちつつ、読者の胸を揺さぶるのは、彼が蘇らせる15歳のときのひと夏の初恋の物語である。何しろ、冒頭から彼の記憶が鮮やかに語り出すのだ。
「ビリー・グレイは私の親友だったが、私はその母親に恋をした。恋というのは強すぎる言葉かもしれないが、それに当てはまるもっと弱い言葉をわたしは知らない。すべては半世紀も前に起こったことで、そのときわたしは15才、ミセス・グレイは35だった」
体の奥底から迸り出るような圧倒的な初恋の記憶が、静かな急流となってストーリーに螺旋階段のように激しく纏わり付きながら物語が進んでいく。2人は、どこで逢引をしたのか。それは彼女のステーションワゴンの中であり、彼が見つけた森の中の古い館(コッターの館)だった。15歳はまだ性急でしかない。
「道路わきか、どこかの小道に入って車を停めることはできないのか、とわたしは訊いた。彼女は横目でわたしを見て、首を振り、ショックを受けたような顔をした。『あなたはほかのことを考えることはないの?』。しかし、結局、彼女は車を停めた」
息を呑むような青春の情動が、押さえた筆致の中に、躍動しているのが読み取れる。
なぜ、不思議な読後感が残るのか?それは、ストーリーとこの少年時代の禁断の恋との関係性が、読者には今一つつかみにくいからではないだろうか。もっとも読者にそう思わせた時点で、この小説は成功しているのだが。しかも作者は、わざとこの2つの物語を繋げるような小細工をいくつも施しているのだから、一層、始末が悪い。言い換えれば、この小説には、作者の術中に知らず知らずのうちに絡めとられていく楽しさがあるのだ。
例えば、濡れた段ボール箱を積み重ねたような体型のビリー・ストライカーという映画会社のスカウトの女性が脇役で登場するが、彼女は「調整者」であって、「ミセス・グレイ、わたしの娘、さらにはアクセル・ヴァンダーまで――を結び付ける存在なのである」。彼はビリーにミセス・グレイを探してほしいと依頼するのである。そして、ビリー(Billie)は、「話をすべき人」を見事に探し出すのだ。ビリー・グレイ(Billy)の妹キティ(キャサリン)である。ビリーとビリー、キャスとキティ、手が込んでいる。そして2人は何を最後に話したのか。それは、ここでは伏せておこう。
少年時代の初恋の物語と言えば、近年では「朗読者」が頭を過る。トーンは少し異なるが、およそ少年の初恋ほど甘美で残酷なものはない。そう言えば、どちらも回想の形を採っている。そう、回想なら「半分は想像力の産物かもしれない」と言える分だけ、官能のきらめきが弥増すのだ。
出口 治明
ライフネット生命保険 CEO兼代表取締役会長。詳しくはこちら。
*なお、出口会長の書評には古典や小説なども含まれる場合があります。稀代の読書家がお読みになってる本を知るだけでも価値があると判断しました。