『こころの読書教室』解説 by 加藤 典洋

2014年2月13日 印刷向け表示
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こころの読書教室 (新潮文庫)

作者:河合 隼雄
出版社:新潮社
発売日:2014-01-29
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私事になるけれども、私はいま、この1年ほど続いた雑誌連載を終えたところである。すこしほっとして、この河合さんの本を手にとり、読み、解説を書こうとしている。 

連載の趣旨は地球と同様に、人類もまた、もう有限の存在であると考えてみたほうがよいのではないか、というもの。最後は、人類が永遠に続くのではないとしたら、人間は今後、自分を人類の一員として考えるだけではなくて生命種の1つ、生命体のなかの一員としても考えてみることが必要なのではないか、という提言になった。

それで、この本を読むと、旧知の人にあったような気がして、うれしい。そこで考えたことと、この本に語られていることの多くが響きあうようだからである。

連載の終わり近くで私は解剖学者の三木成夫さんの説を取りあげている。三木さんは、人間をものを感じる(そして考える)随意的な体壁系(皮膚、神経、筋肉)と、ものを感じない(そして思う)不随意的な内臓系(内臓、消化器、呼吸器、血管)とに分け、体壁系は動物の部分、内臓系は植物の部分に対応しているという。「考えること」と「思うこと」がそこでは向かいあっている。

前者は脳(頭)、後者は心である。

西欧にも、体壁系=動物的、内臓系=植物(有機)的という考え方はあるのだが、そこでは外部から隔てられた内臓系の生は「閉ざされて」いて、半分死んだ存在のようにみなされている。大脳機能を失った人を植物状態(vegetable state)と呼ぶのも、このような考え方である。でも三木さんは、ほんとうは逆で、「体壁系(脳)」よりも「内臓系(心)」のほうが宇宙とそのままつながっていて、広くて深い、という。人間を手袋みたいに裏返してみると、その姿は樹木になる。子宮が月齢に呼応しているのが、何よりの証拠。頭は宇宙の成り立ちまで考えるけれど、それは目や手で身近のものを「さわってみる」ことの延長を無限にのばしていった結果で、地続きの無限にすぎない、ともいっている。

私が特に三木さんと河合さんは似ていると思うのは、次の点だ。

三木さんは、動物は溜ため込む。ストックするが、植物の生の基本は、「溜め込みをおこなわない」こと、フローだという。

人間の本質、生き物の本質、そして心の本質は、「ストック」ではなくて、「フロー」にある、というのだ。

『こころの読書教室』と題されたこの本の原題は『心の扉を開く』である。どちらにも「こころ」という言葉が出てくる。

最初の話題は、「私と”それ”」。そこに、このフローの話が出てくる。

フロイトが人の心を考えたのは、医者として患者とつきあっているなか――つまり、他との関わり・流れ、フローのなか――でである。なぜ心の病いが生まれるのかと考えて、人間の生きる経験の底に、何か”それ”としかいいようのないものがあって、それを勘定に入れないと、この病気は治せないという結論にいたった。で、”それ”としかいいようのないものを「それ」と呼んだのだが、「それ」がいつの間にかドイツ語のまま「Es(エス)」と読まれ、「無意識」という概念を意味するようになった。でも、無意識とは何か。それは学問用語とは少し違う。フローの中でつかまれたものだ。だとしたら、乾し昆布を水に戻すように、「エス(無意識)」もいったん、”それ”に戻してみようではないか。河合さんはそういう。

ほんとうは、無意識というのは、「ストック」されたものではなく「フロー」しているものなのだ。それが河合さんのいおうとしていることなのだと、私は受けとった。

「フロー」しているから、それは、私の内部、奥底にあると同時に、外ともつながっている。ユングの集合的無意識というものがそもそも、無意識はフローだということである。だからそれは、物語につながる。また絵本に親しむことにもつながる。

本を読む人が少なくなった、それがとても残念、がこの本の河合さんの最初の言葉である。そのために、「読まな、損やでぇ」といいたくてこの本を書いた、と河合さんはいっている。ところどころに関西弁がまじるのは、関西弁が河合さんにとってハナシ言葉、フローの言葉だからだ。話す、放す、離す。きっともとは同じ意味、フローさせる、ということなのだ。

河合さんがいっているのは、本を「ストック」(知識とか情報とか)を手に入れるために読む人がふえたけれど、読書というのは、ほんらい、本に流れているもの――「フロー」――にふれることなんだ、ということである。

別のところではそのことを、河合さんは、〝それ〟は「魂」とも呼ばれることがある、ともいっている。

見ようによっては、とても難しい、達人でないとわからないようなことなのだが、そういうことが平易に、あっさりといわれているのも、この本の特徴だ。

でも、考えてみれば当然のことだろう。河合さんがいうのは、そもそも、語ろうとするととても難しいことが、絵本、童話、物語には、平易に、あっさり、流れるように―― フローの状態で ――描かれているヨ、ということだからだ。

でも、なぜここでは、絵本でも童話でもないのに、そういうことがあっさりと簡単にいわれているのか。

それは河合さんが、プロフェッショナルな臨床家(人にたちあう人)だからだろう。書く人である以前に、人の話を聴く人、人に向かいあう人、苦しんでいる人とともに苦しむ人だからだろう。生きること、考えること、感じることが、この人のもとでは、人とのあいだで起こること―― フロー ――として受けとられているのだ。

相手の話を聴くとき、意識の水準をさげる、と河合さんはいっている。意識の水準を上げると、頭が働き、自我が活躍するのだが、反対に、これを下げると、意識の明度が曇る代わりにいわば無意識がむずむずと動くようになる。部屋の明かりを低くすると、机の上に昼行灯のように灯っていた蝋燭の灯が浮かびあがる。お互いにボケーっとすると、クライアントの暗がりに灯っている蝋燭と、話を聴く河合さんの内部の暗がりに灯っている蝋燭とだけが闇の中に残り、ほかのことは消えて、2本の蝋燭の炎が同じかすかな風に揺らぐ。共振する。

そこでは、語ることと語らないことは、ともに同じくらい大事なことである。

アルコール依存症の人がくると、

僕は「酒は飲むほうが悪い」なんて絶対に言わないです。飲もうと、飲むまいと、何をしようと、「ともかく、それはどういうンやろなぁ」と思って聞いているときは、僕はボヤーッと聞いているのです。つまり、僕の心の扉をできるだけ開くように聞くんですね。

非登校の子がきても「君、いつから行ってないの」などとは聞かない。「学校に行ってへんです」と言うと、

 「あ、そう」と言っているだけですよ。黙ってたら、こっちもほとんど黙っているぐらいです。その子が「先生、よう降りますねえ」と言ったら、「ああ、降るなあ」と雨の話をするんです。

意識の水準を下げても、明察力を保つという修行が、たとえば仏教の座禅なのだが、河合さんがいうのは、意識の水準を下げて「心の扉を開」き、〝それ〟に耳を澄ませるという、それとは違う、もう1つの心の働きである。

〝それ〟は私の心の底にもあるし、相手の人の心の〝底〟にもあって、つながっているのかどうかはわからないが、その〝底〟のほうで、私から外にフローしていっている。そこのどこかに水門のように、「心の扉」がある。

フィリパ・ピアスの『トムは真夜中の庭で』では、主人公トムが秘密のドアを抜けて真夜中、入り込む異世界の庭が、じつは、同じアパートの上の階に住む家主のバーソロミューのおばあさんの夢の世界だったとわかる。最後、2人は偶然出会って、そのことを知り、心を通わせる。でもなぜピアスはそんなふうにこの物語を終えているのだろう。

こういうのを読んでいると、僕はよく思うのですが、おばあさんが1人でずっと寝ているときに、あのおばあさんは何もしていないというのは大間違いであって、おばあさんが寝ていることで、1人の少年が成長することに役立っているということがあるんじゃないかと、僕はこのごろ思っています。(略)言うならば、おばあちゃんが寝ていて、ときどき孫が行って、「おばあちゃん、どうしてる?」と言うだけで、「おばあちゃんは何もせずにいる」と思うけれども、その子の成長の心の深いところで役に立っているのではないかなと、僕は思うのです。

孫が遊ぶ。おばあさんが寝ている。この2つのあいだには、何の因果関係もないのだが、それとは違う別の仕方で、2つはつながっている。そのつながりは〝それ〟としかいえない。でも、〝それ〟があるため、おばあさんがずっと1人で臥せていることは、孫が心を成長させていくことに、大きな役割を果たす。孫が成長するのに、おばあさんが寝ていることは、大きな恵みなのだ。

別の本、ルーマー・ゴッデンの『ねずみ女房』では、こういわれている。家ねずみの夫婦の女房ねずみはなぜか、自分にないものが気になる。「自分の知らない何か。けれども、大事なことがあるのだ」。そしてハトと知り合い、ハトは飛ぶのだといわれると、飛ぶということがわからず、思い悩んだあげく、最後、ハトの入っているカゴの扉をあける。

ここのところ、ほんとうに素晴らしいと思うのは「あれが飛ぶことなんだ! わかった!」というのと、「ハトがいなくなる」というのとが一緒なんですね。

続けて、

人間ていうのは、ほんとうに大事なことがわかるときは、絶対に大事なものを失わないと獲得できないのではないかなと僕は思います。

この本は、河合さんの最晩年、最後の年の1年前に作られた本である。この本を出してから数ヶ月後に、河合さんは脳梗塞に倒れ、ずいぶん長く臥せられた後、亡くなられた。世の人々に薦めたい本が、4つの「話し」を通じて、5冊ずつで、20冊、さらにもう少し読みたい人のために、やはり20冊で、計40冊。

なんというギフトか。

載っているのは、本の紹介ではなく、どんなふうにこれらの本が自分に面白かったか、自分はこう読んだ、という河合さんの「お話」である。

本を読むというのは、なにか。

それは、「自分の心の扉を開いて」、自分の中から、「自分の心の深いところ」に出ていくことである。私たちは、本を読むことで、相手の話を聞くだけではない。じつは本を読みながら、自分の思い、ひとりごとに、誰かが耳を傾けてくれていたことにも、後になって、気づくのだ。

(平成25年12月、批評家)  

 

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