教誨師とは、拘置された死刑囚と唯一面接できる民間人である。面接を望む死刑囚と対話し、ときに悔悟を促し、教え導く役割を負う。そしてさらに、面接を続けた死刑囚の刑の執行にも立ち会うという、過酷な任務でもある。
無報酬の「仕事」であり、多くの場合、牧師や僧侶など宗教家が、その役割を担う。そんな過酷な仕事をタダで誰がやるのか、と疑問が起こるが、宗教家にとって「教誨師」という肩書は「まことに美しい響きを持っている」そう。新興宗教もある程度組織が整うと教誨活動を申し出るのだという。
ただし、本書に登場する教誨師、浄土真宗の僧侶である渡邉普相は、そんな肩書に惹かれて教誨師になったわけではない。昭和30年代、浄土真宗の世界では知る人ぞ知る、型破りな僧侶であった篠田龍雄という教誨師に、自分の仕事を継いでほしいと言われたのだ。広島で被爆して多くの死を目の当たりにし、その後売春婦救済の社会貢献活動に取り組みたいと思っていた渡邉は、篠田から教誨師の仕事について聞き、「ああっ、これだ!」と思ったという。そしてまだ20代の若さで教誨師となり、半世紀にわたって多くの死刑囚と対話することになる。
本書ではまず幾人もの死刑囚の生の声が再現される。
例えば、収監中、酒飲みたさにバールで看守を殺して脱獄した山本勝美(仮名)は、渡邉との対話を通じて親鸞の「悪人正機」に触れ、人が変わったように熱心に経典を学び、他の死刑囚にも仏道を説くようになる。
あるいは昭和24年、国鉄三鷹駅で無人の電車が暴走、転覆し6人が死亡した「三鷹事件」の犯人とされた竹内景助。9名の共産党員と、非共産党員の竹内が逮捕され、共産党員は全員無罪、竹内だけが死刑となったが、渡邉はその竹内ともよく対話した。
冤罪が濃厚と言われている竹内も、浄土真宗の教えに真摯に向き合い、写経や書は芸術作品の域だったという。武内の渡邉への信頼は厚く、美しい書の数々を預けたばかりでなく、独房内の仕事で得られた報酬さえ、直接妻に渡さず、渡邉に託した。竹内の妻には共産党の事務局長が付き添っており、その報酬が支援費用の名目で共産党に横取りされるのではないかと疑っていたからだ。
竹内の再審請求補充書によれば、「共産党系の弁護士に、罪を認めても大した刑にはならない、必ず近いうちに人民政府が樹立される、ひとりで罪を認めて他の共産党員を助ければ、あなたは英雄になれると説得された」そうで、それゆえ竹内は共産党を嫌っていたのである。
旅館の乗っ取りを画策して経営者と肉体関係を持ち、別の男に経営者の妻を殺させたうえ、その後経営者も殺させた「ホテル日本閣殺人事件」の犯人・小林カウは、当初、一方的に愚痴をぶちまけていたが、やがて如来像を飾り、毎朝30分「正信念仏偈」をあげるようになった。看守たちも驚いたそうだが、彼女は別に聖女に変貌したわけではない。自分は死刑にならないと思い込み、釈放後の生活設計さえ考えるようになる。養老院を経営する計画を立て、日々の業務でいくら利益が上がるかを1円単位まで計算して渡邉に披露した。渡邉も、小林の求めに応じて、苦笑しつつも養老院のパンフレットを差し入れたりもしたという。
他にも、ひらがなさえ書けず、極度に気の弱い強姦殺人犯・木内三郎や、幼い時からひどい境遇で育ち、自分を捨てた母親を困らせるためだけに、世話になった施設の老守衛を殺した横田光男、快楽のため2人の女を猟奇的に殺して捕まり、さらに3人を殺害したことを渡邉に告白した白木雄一(いずれも仮名。尚、白木による3人の殺害については、詳細な告白があるにもかかわらず、警察は「刑の執行を遅らせるための、死刑囚の方便」として再捜査を行わず、大手マスコミも無視を決め込んだ)など、渡邉と死刑囚らのリアルな対話が再現されたのち、今度は彼らの死刑執行の場面が描写される(ただし竹内景助は脳腫瘍で病死)。
読者は、著者が活写した渡邉と死刑囚の対話を読み、死刑囚個人の人となりを想像できるようになっている。それゆえ、死刑執行の場面の記述は自然に冷や汗が湧いてくるほど重い。死刑囚それぞれで違う、死の直前のふるまい。緊張する刑務官たち。読経の響き。そして死刑囚の足元の踏み板が、バッターンと轟音を立ててはずれ、首に巻かれたロープがギッシギッシと音を立てるさま。酷い犯罪を犯した死刑囚とはいえ、克明に記述されたその場面からは、一個の人間の死の重みが、ずっしりと迫ってくるのだ。
さて、ここまででも本書はまさに第一級のノンフィクションである。しかし実は、本書はその先がさらに素晴らしいのである。
死刑囚たちと対話し、時に心を通わせる。渡邉を兄のように慕う死刑囚たちもいる。そして、そのあげくに、彼らが殺される瞬間に立ち会う。そんなあまりに過酷な任務のせいか、渡邉はアルコール依存症になってしまう(ただし、渡邉本人は、ストレスのせいではなく、あくまで酒の味が好きだからやめられなくなった、と主張する。その頑固さも渡邉らしいところだ)。だが逆に、酒があったおかげで、本当におかしくならずに済んだのかもしれない、と著者は言う。そしてその酒が思わぬ形で、渡邉と死刑囚たちをつなげるのだ。
渡邉は入院し、ときに死刑囚の独房さながらの「保護室」に入ることもあったが、それでも病院から拘置所に通い、教誨活動を続ける。当初、渡邉は「教誨師が『アル中』じゃ、決まりが悪い」と秘密にしていた。しかし苦しい断酒との戦いのために死刑囚との面接に行けないときなど、彼らに嘘をつかねばならず、その嘘を隠すため、さらに嘘を重ねることに疲れてしまう。「楽になりたい」。そう思い、とうとう、死刑囚たちに告白するのだ。
「実はわっし、今、”アル中”で病院に入っとるんじゃ。酒がやめられんでね。たびたび面接も休んでしもうて、申し訳ないことですな」
かつて覚醒剤中毒に苦しんだ、ある死刑囚はそれを聞いてこう言う。
「先生、あんたもか! それは苦しいだろう、分かるよ。覚醒剤も酒も同じだ。(中略)自分で止めるしかありませんよ」
教誨師である渡邉と死刑囚たちの関係性が一変した瞬間である。この先の描写はまるで奇跡のようで、陳腐な表現で申し訳ないが、思わず目頭が熱くなった。
面接の際、自らの死を意識するゆえ、死刑囚たちは、全身の神経を尖らせ、極めて鋭敏に相手に対する。それに真っ正直に向き合うとき、立場や肩書を超えた一個の人間同士の関係性が生まれるのだ。「死刑囚と教誨師との対話」という特異なストーリーが、普遍的な人間関係に転化していくさまは本当に感動的だ。
実は渡邉はすでにこの世にない。「この話は、わしが死んでから世に出してくださいの」という渡邉の希望どおり、彼の死後、著者は自分に託された渡邉の経験と思いとを、見事にひとつの作品にまとめあげたのだ。真摯に誠実に人と向き合い、人間そのものに迫ってきた著者だからこそ書けた、傑作ノンフィクションである。