松下幸之助は、単なる日本の事業成功者ではない。彼は、日本のみならずアジアの人々から尊敬されており、事業家というよりも思想家のような存在にまで達している。
そのことを実感したのは、アジア取材でのことだ。マレーシアの首都クアラルンプールから西に20数キロ離れた港町クランにあるパナショップを見学した。主人は2代目だ。店にはパナソニック(旧松下電器)の製品が並ぶ。
店内に入ると、客が炊飯器を選んだり、システムキッチンを眺めたりしている。
マレーシアには、日本では少なくなったパナショップが残っている。彼らは、地元に密着し、店を子どもに引き継いでいく。この店にも3代目が働いていた。
私が、日本ではパナショップが少なくなっていることを言うと、主人は「子どもたちが店を継がないことと、量販店が多いからだ。マレーシアにも量販店はあるが、常連さんを大事にして共存共栄の精神で接客していれば、大型量販店には負けない」ときっぱりと言った。その顔には、パナショップを削減したパナソニック本社に対する怒りが浮かんでいるように思えた。
店の奥の壁には松下幸之助の署名がある「共存共栄」の色紙が大切に飾られていた。
この「共存共栄」の色紙を飾ったり、パナソニックの社訓の言葉を自社の社訓の中に取り入れたりしている会社や店はアジア各国にある。マレーシアばかりではなくインドネシアでもタイでも出会った。どの店主、どの経営者も松下幸之助(以下、幸之助)の「共存共栄」思想を崇め、尊敬し、その生き方に倣う。それが成功への道であるかのように。
驚くべきことにパナソニックを窮地に追いやったと言うべき存在の韓国サムスンの社訓にも松下幸之助の言葉、特に「お客様の声を聞け」を取り入れているというではないか。それは李健熙会長が松下幸之助を尊敬していたからだと言う。
私が育ったのは、兵庫県丹波市の小さな村だ。高度成長の頃、村の中を家電を積んだ電器店の軽トラックが行きかっていたのを鮮明に記憶している。荷台には洗濯機、冷蔵庫、そしてテレビが積まれていた。
あの頃、村でテレビがあったのは庄屋の家だけだった。幼い私は夕方の決まった時間に庄屋の家に行き、居間に正座をし、テレビを見せてもらった。庄屋の夫人が大きな飴玉も1個ずつ配ってくれたが、正座が窮屈で「早くテレビを買ってくれ」と私は両親にせがんだ。しかし、なかなか我が家にはテレビが来なかった。東京オリンピックも庄屋の家で見た記憶があるから、ようやく我が家にテレビが来たのは、その翌年、昭和40年ではなかっただろうか。
我が家の家電は全て松下電器製、すなわちナショナル(当時)だった。我が家だけではない。村中の家電がそうだった。新しい家電が私たちに豊かさや幸福をもたらしたとすれば、ナショナルは豊かさと幸福の象徴だった。
ナショナルブランドは平成20年に廃止されてしまった。私は非常にショックを受けた。それは単なる家電ブランドの域を越え、幸福だった子どもの頃の記憶と一体となっていたからだ。今でもあのナショナルブランド廃止が、パナソニック低迷の原因ではないかとさえ思っている。
本書は、そんなナショナルブランドが創業者幸之助から数えて7代目の社長、大坪文雄によって廃止され、パナソニックに統一されるシーンから始まる。幸之助の手から、あるいは彼の呪縛から離れ、松下電器がパナソニックとして新しく出発する意味を著者の岩瀬達哉氏は、そのシーンに込めたのかもしれない。
岩瀬氏は、あとがきに本書のことを「書くことが運命づけられている」と記している。和歌山に生まれ、幼い頃に幸之助の数々のエピソードを聞かされていたという。
運命というべき幸福な題材に出会えた著者は、丹念に幸之助の辿った道を歩く。それはまるで幼少期から今日に至るまでの彼自身の人生を辿っているようだ。そう言えば岩瀬氏は1955年生まれ。私とほぼ同年齢だ。この年代の私たちは幸之助を偉人ではあるが、身近に感じ、ナショナル(パナソニックとすべきだが、どうもこの名前はしっくりこない)とともに歩んできたのだ。ぐいぐいと引き込まれて本書を読んでしまう理由は、実はそこにある。本書は、幸之助を描きながら、そこに私たちの人生を重ね合わせているからだ。
幸之助は決して幸せな生まれではない。実家は、裕福だったが、父親が相場に失敗し、破産する。逃げるようにして故郷を後にした一家に追い打ちをかけるように不幸が押し寄せる。幸之助の兄弟は、次々に肺病で亡くなる。幸之助は、なんと9歳で一家を支えなくてはならなくなったのだ。松下家を再興すること、これが幸之助の使命となった。血族の王への第一歩だ。
幸之助は、いつも死の恐怖と戦っていただろう。私も兄姉を若くして癌で亡くしているが、そういう人間は、自分もそれほど遠くないうちに死ぬかもしれないと考えてしまう。だから必死で先を急ぐ傾向がある。幸之助もそうだったようだ。丁稚として商売のいろはを学んだ自転車屋を正式に暇乞いせずに退職する。岩瀬氏は、その時の幸之助の心境に「なりふりかまわず人生をわたり急がねばならなかったからである」と想いを寄せる。
この自転車屋勤務の際、幸之助には有名なエピソードがある。煙草を求める客のために買い置きをするサービスを始めたのだ。しかし、それは同僚のねたみを買うことになる。ねたみを買わないためにはどうしたらいいのか。そこから利益の還元、すなわち「共存共栄」の思想が芽生えたと言う。現場からの発想を思想にまで昇華させていく、幸之助の資質が見て取れる。
著者は、丹念に幸之助に縁のあった人や街を訪ね、ひとつひとつ周辺の話題を拾って行く。それが幸之助の存在に文献からだけでは不可能なリアリティを与えている。たとえば、幸之助の妻むめのの縁者にまで話を聞く。それも幸之助が電灯会社を退職し、伝説に彩られた二股ソケットを作る大正6年当時のことだ。そんな時代のことを覚えている人がいるはずはない。いくらノンフィクション作家とはいえ、そこまでやるかと驚いた。しかし、その取材のおかげで妻のむめのと幸之助が一緒に必死になってソケットを作っている家内工場の汗や油の匂いまでが行間から伝わってくる。後年、幸之助は第2夫人と言われる愛人を持ち、子どもをなすが、そのことに関する幸之助の謝罪の思いやむめのの腹立ちも、この取材があるからこそ生きて来る。
本書であらためて知るのは、幸之助は発明家ではないということだ。幸之助は、東京電気と電球の販売競争を行った。ナショナル製電球は東京電気製のマツダランプに比べて完全に性能が劣る2級品だった。当時、マツダランプは、市場の七十%を占め、また電球の国産メーカーは28社もあった。他の国産メーカーもマツダランプに比べ性能が劣るため3分の1程度の価格でしか売れなかった。そこへ幸之助は参入し、2級品にもかかわらずなんとマツダランプと同じ価格で販売する。販売店の店主たちは、正気の沙汰ではないと反対するが、幸之助は、「育てると思ってこの商品を扱っていただきたい」と彼らに頭を下げる。意気に感じた店主たちは、この2級品を販売し、マツダランプを凌駕してしまう。
このエピソードでナショナルは、「2番手戦略」「真似した電器」と揶揄されていたことを思い出した。しかし、それは「まさに網の目のように日本列島をすっぽり覆い尽くす完璧なまでの販売網を育んでいた」から可能だったのだ。販売網は幸之助の「共存共栄」思想に共鳴した店主たちで構成されていた。そのことが最大の強みとなっていた。幸之助は、販売網を最大限に活用した。先行メーカーよりもよりよい製品に改良した上で市場に提供し、一気にシェアを拡大した。この販売力、今日的に言えばマーケティング力がナショナルを世界の電器メーカーに押し上げたのだ。実は、これを真似たのが韓国サムスンだ。技術力では、完全に勝っていた日本メーカーがサムスンに敗れたのは圧倒的なマーケティング力の差だと言われている。サムスンは、幸之助のマーケティング手法を世界戦略にまで押し上げた。それが成功の最大の要因なのだ。
成功した後の幸之助は「血族の王」として非常に人間くさい面が強く現れる。それは孫の正幸を後継者に据えようと、必死になったことだ。「それによってはじめて、悲願は達成され、松下家の繁栄は絶えることなく続くと考えているかのように」と著者は書く。しかし、その試みは、叶わなかった。それは皮肉にも娘婿の正治(すなわち正幸の父)が抜擢した山下俊彦が阻止したからだ。「こんな仕事、正幸君にはしんどいでっせ」と山下は言ったという。しかし、この結果をむめのの弟井植歳男が創業した三洋電機と比較して、一族支配から脱した松下電器は、「時代の激しい変化とうねりのなかで翻弄され」ながらも、パナソニックとして生き残ることが出来ているのかも知れないと評価する。
本書には井植歳男との骨肉の争い、自分を凌ごうとする部下への残酷な仕打ちなど、幸之助の負の面が克明に描かれている。そのどれもが類書では書かれていなかったものばかりだ。しかし、こうした負の面を隠すことなく描き切ったからこそ本書は類まれな幸之助の評伝になった。そして本書を読んだ人は誰もが、ますます幸之助を尊敬し、愛するようになるだろう。
(2013年11月、作家)
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