先史時代にまでさかのぼり、多くの国・地域を比較することで、政治制度の起源に迫っていく本書は、2013年出版本でおすすめNo.1だ。著者フランシス・フクヤマによる起源をめぐる探求は広く、深い。上下巻合わせて700ページ超という大著でありながら、複雑に絡み合った歴史の流れが明快な論理に則って展開されるため、最後までまったく飽きさせない。ページをめくるたびに、1行読み進めるたびに、新たな発見がある。
おすすめしたい本にも色々な種類がある。最強の柔道家木村政彦の強さをその生涯とともに描き出した『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』には、木村の生きざまとその木村に惚れ込んだ著者の執念に、心が動かされる。裸足で山を駆け抜ける伝説のタラウマラ族を追い、「ヒトはなぜ走るのか」という根源的な問いに答えようとする『BORN TO RUN』には、読了後ランニングにでかけずにはいられないほど、身体が動かされる。そしてこの『政治の起源』は、歴史のダイナミズムとそれを読み解くフクヤマの手腕に「もっと知りたい、もっと考えたい」という欲求が刺激され、頭を動かさずにはいられなくなる本である。
本書では近代的な自由民主主義を支える基本的政治制度として、「国家」、「法の支配」、「民主主義的な説明責任」にフォーカスがあてられる。上巻では狩猟採集民時代の人類の姿から、国家形成までが語られる。世界で最初の近代国家は「紀元前221年に秦が中国を統一したときに出現した」、というフクヤマの指摘は注目に値する。この下巻でも、ヨーロッパの特殊性は強調されながらも、西洋中心史観に陥ることなく論が進んでいく。
下巻での最初のテーマは、法の支配。財産権を保障し、統治者や支配者層までも拘束する法の支配の重要性は、直感的にも理解できる(国家が力に任せて財産を奪いにくる社会を望む人は少ないだろう)。しかし、民主制や経済発展を実現しながらも、法の支配を実現できていない国は多い。それは、民主選挙が普及したラテンアメリカでの警察や判事の腐敗、そして世界で最初に官僚組織を備えた近代国家をつくり、現代では世界2位の経済大国に登りつめながらも法の支配と無縁であり続ける中国によく表れている。
法の支配の社会への実装は、民主選挙の執行や税の徴収などと比べても困難なのだ。なぜなら、法そのものに加えて、法を運用する制度(判事、弁護士、法廷など)、多くの人が法を公正なものであるとみなす土壌が形成されなければ、法は為政者までを含めた社会全体を支配できないからだ。多数派が法の正統性に疑問を抱き、法を遵守しないという状況に陥れば、裁判のコストは非現実的な規模にまで膨れ上がるだろう。
それでは、この実現し難い制度に人類はいつ、どのように到達したのか。答えは、ヴァイキング襲来を契機として統一されたばかりのイギリスにある。イギリスは、1066年のノルマン征服後に中央政府の法的機能を強めていく。それは、地方を管轄していた荘園領主による領主裁判所を形骸化し、国王裁判所の権威を高めることで実現された。判決の蓄積により法そのものが進化していくという特質を持ったコモン・ローと全国に広がる判事による法の運用体制がイギリス国家の正統性をより確かなものとし、国家への帰属意識と遵法意識を更に強化するという好循環を生み出し、イギリスは法の支配を備えた中央集権国家へと離陸していった。
イギリスが近親重視の部族社会から近代国家へと生まれ変わる土台をつくるうえで重要な役割を果たしたのが、キリスト教である。6世紀にヨーロッパ大陸から伝えられたキリスト教は、人々の道徳観や結婚・相続のルールを変えることで、部族の結束を弱め、より普遍的な共同体という概念を受け入れる素地をつくった。もちろん、キリスト教はヨーロッパ大陸においても、法に根拠を与えることで、法の支配の確立に大きく寄与している。ただしそれは、コモン・ローとはまったく異なる法体系(大陸法)として表出された。
フクヤマは、キリスト教が法の支配を生み出していったプロセスをつぶさに観察していく。そして、ローマ教皇と皇帝の叙任権闘争(聖職者の任命権をめぐる争い)や忘れられたローマ法「ユスティアヌス法典」の再発見、大学の誕生などがヨーロッパにおける法の支配に作用していたことが明かされていく。フクヤマは同時に、なぜイスラームや同じキリスト教でも東方教会では法の支配が発達しなかったのかを辿っていくことで、起源の理由をより明確に浮かび上がらせていく。それらを分けたのは教義の優劣ではない。
『政治の起源』で直接その名は取り上げられていないが、戦争が常態であった中世ヨーロッパには、「世界の驚異」と呼ばれた男がいた。男は皇帝として生まれ、皇帝として生き、皇帝として死んだ。近代国家や法の支配、もちろん政教分離などない13世紀において、その男、神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒ二世は、封建領主を抑え中央集権国家への土台をつくり、官僚組織と法の執行を支える人材を育てるために大学をつくり、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」を実現するためにローマ教皇と闘い抜いた。
時代を超越したとしか思えないこの皇帝の生涯を描いた『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』を是非本書とあわせて読んで欲しい。フリードリッヒ二世の偉業に、人間はこれほどまでに完全性に近づけるものかと驚くとともに、その男をしても構築しきれなかった政治制度がどのようなうねりの中で作り上げられていったかが、より立体的に感じられるはずだ。
本書が最後に取り上げるのは、説明責任を備えた政府だ。説明責任発生の鍵は、国家と3つの力(貴族、地主、第三身分)とのパワーバランスにあるという。強大過ぎる国家は何者に対しても自らの行いを説明する必要などなく、弱い国家では説明が必要なほどの行動を起こせない。ここでもフクヤマは豊富なヨーロッパの事例をもとに、巨大な政府がどのように暴走しうるか、十分に統制の効かない国家を貴族がどのように食い物にするかを説明していく。我々が享受している自由は決して必然などではなく、奇跡のようなバランスの上でのみ成り立つものなのだ。
人類誕生からフランス革命までを縦横無尽に探求しつくしたフクヤマの挑戦は、まだ終わらない。2014年にアメリカで発売を予定している本書の続編では、産業革命によって「人口増加率が生産性の向上を上回るというマルサス的世界」から抜け出した人類の歩みが総括され、進むべき道を模索していくという。近代は貧困、格差や民主主義の機能不全など多くの課題に直面している。制度が地理的、文化的要因に左右されながら積み重なっていく長い歴史の振り返りの結末に、それでも「社会は過去の歴史にしばられてはいない」とフクヤマは断言し、未来を信じている。訳者解説でも指摘されているように、制度発展の原因足りうる「思想」の面から、近代を前進させようというフクヤマの意思を感じずにはいられない。
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法の支配の確立において、3つの制度を同時に揃えることにおいても世界をリードしたイギリスの歴史を概観できる一冊。同じく岩波新書の『フランス史10講』、『ドイツ史10講』とあわせることで、複雑なヨーロッパの輪郭がより明瞭になる。
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