世界は多様性に満ちている。
ITの普及とともに急速に平準化されていく世界を描いた『The World Is Flat』(邦題『フラット化する世界』)の発売から8年以上が経過し、スポーツから経済まで“グローバル化”が合言葉になっている。それでも、世界はまだまだデコボコなままではないか。インターネットの力で世界はより繋がりあったかもしれないが、今もわれわれは異なる場所で、違う服を着て、似ても似つかない習慣に従って暮らしている。
深夜に子どもが1人で出歩ける国、電車が分刻みのスケジュールで正確に発着する国は、日本以外にそうはない。また、誰でも銃が買える国もあれば、公共交通機関に時刻表すらない国もある。サルから進化し、同じようにアフリカに起源を持つはずの人類がそれぞれに作り上げた社会は、どうしてこれほどまでに異なるのだろう。どのような道のりを経て、これほどまでに多様な社会は形成されたのだろう。
著者のフランシス・フクヤマは、政治制度を切り口に、人類の歩みを振り返る。人間という動物の本質と制度の関係性を明らかにするために、時計の針は人類誕生以前にまで巻き戻される。気の向くままに大地を駆け、何ものにも縛られることのない暮らしを送っていた狩猟採集民時代の私たちの祖先は、どうして無限の自由を放棄し、納税や徴兵などの煩わしさを伴う国家という制度を受け入れるに至ったのか。悠久の時の流れを追えば、一足飛びには実現できない、人類の試行錯誤の軌跡が見えてくる。
振り幅が大きいのは時間だけではない。フクヤマは西洋中心史観に陥ることなく、全地球的に制度の発展と衰退を掘り下げていく。考察する時間と空間を限界まで広げるのは、どのような条件下でどのような制度が発生し、どのように機能するかを多角的に比較するためだ。制度の発展と衰退を深く考察していく本書であるが、フクヤマの筆運びは教科書的な退屈なものとは程遠い。歴史の大きな流れが、一行読み飛ばすのも惜しい程の高密度で描かれ、そのストーリー展開に魅了されずにいられない。
先史時代からフランス革命までを描く『政治の起源』は上下巻の二巻構成であり、著者の来日に合わせて上巻のみが先行発売された。この上巻だけでもとんでもなく面白く、下巻の発売を待たずしてレビューを書かずにいられなかった。困った点といえば、下巻が待ち切れないことと、本書で引用される文献にまでそそられてしまい、新刊を読む時間が少なくなったことくらいだ。また、2014年春には米国で『政治の起源』の続編となる『政治の秩序と衰退』(仮題)が上梓される予定となっている。
フクヤマは国際機関の一員として崩壊した国々の国家再建活動に関わるなかで、本書のテーマに行き着いたという。秩序がなくなってしまった場所で国づくりに取り組むうちに、現代を生きる我々は民主主義を体験したことはあっても、「民主主義をどのようにつくるのか」を知らないということを思い知らされたのだ。そして彼は、制度論は数多あれども、その発生の起源を追求する議論がなされてこなかったことに気がつく。
なぜ、デンマークのように政府が正常に機能している国がある一方で、メラネシア地域やアフガニスタンのように国際社会の多大な努力をもってしても政治秩序が根付かない国があるのかとい問いに答えを出すために、フクヤマは自らの手で制度の起源を解き明かすという難題に取りかかったのだ。
本書では、国家、法の支配、説明責任を持った統治機構、が議論の中心となる。フクヤマは、近代自由民主主義がうまく機能するときには、この3つの基礎的政治制度が均衡よく合体しているという。どれか1つが欠けただけで、近代自由民主主義は機能しなくなるのだ。例えば、ロシアでは民主的選挙が行われ、強大な国家が存在しているが、統治者は法の支配下にはないように見受けられる。この3つの起源を探ることこそが、デンマークとアフガニスタンの違いを理解することにつながっていく。
何かの誕生の瞬間を語るためには、それが誕生する前の状態を知る必要がある。つまり、制度が生まれる以前、「自然状態」における人間を理解しなければならない。ここでフクヤマは、トーマス・ホッブズやジャン=ジャック・ルソーらの考察を起点としながらも、霊長類学や考古学、進化生物学などの最新の自然科学的知見を用いて、先史時代の人類の姿を明らかにしていく。そして、ホッブズとルソーはどちらも「人間は原初においては個人であり、のちに発達して社会に入る」という誤った仮定を用いていたと指摘する。
この仮定が誤りであるということは、99%近くのゲノムをヒトと共有しているチンパンジーを観察すればよく分かる。政治制度を持ち合わせないチンパンジーも、バラバラの個体としてではなく、群れの中で社会的に行動している。さらに、ミラーニューロンの発見や血縁選択の研究などが進むに連れ、人類がいかに社会的行動に最適化されているか、他者との利他的協力行動をとり得るかが明らかになってきた。つまり人類は、その誕生の時点から社会的であり、”個人”であったことなどないのだ。著者はここから、人類が社会的動物であるということを念頭に、どのような要素が家族・群れ・部族へと集団を拡大させていったのかを解き明かしていく。ここでは戦争、宗教、所有権の存在が鍵となる。
さらに議論は、世界で初めて近代国家制度を生み出した地域へと移っていく。その人類最初の近代国家とは、始皇帝によって率いられた秦である。ヨーロッパに先んじて、紀元前3世紀の中国に近代的国家が誕生していたという著者の視点が、本書の議論をよりエキサイティングなものとしている。秦は、土着エリートたちを弱体化し、能力に基づいて選出される官僚制を持つことで、中央集権化に成功していたのだ。
なぜ、弱小国の1つに過ぎなかった秦が世界に先駆け、人類のDNAが求める近親ネットワークに基づく部族社会を乗り超え、近代国家に変貌を遂げることができたのか。この革新の裏側には、魏からやってきた商鞅という男が大きな役割を果たしていたという。商鞅は農地の管理システムを変え、徴税システムを変え、そして儒教に染まった思想までも変えてしまった。どうすれば、1人の男がこれほどの改革を実行できるのかと驚くしかない。秦で導入された制度がどのように国家の形成へと繋がっていったのか、フクヤマは着実に論を積み重ねていく。
春秋時代から始まり、秦、漢を経て三国時代へ突入していく血湧き肉踊る時代の中国の制度を分析していくこのパートが、上巻のメインディッシュだろう。しかし、中国を堪能した後でもフクヤマはまだ満腹にはならない。彼の食指は、直ぐにインドへと動いていく。インドでは、中国とは対照的に、ついに大きな国家が誕生しなかった。この2カ国を比較することで、中央集権国家誕生の条件がより明瞭になってく。両国の起源の違いは、現代のインド・中国を理解するポイントともなる。
興奮のあまりつい長くなったが、制度の起源の探求はまだ緒に就いたばかり。上巻だけでも、インドの後にはイスラム世界の軍事奴隷制度、そしてイギリス個人主義の本質へと進んでいく。多様な制度の変遷に触れると、冒頭でフクヤマも述べているように、制度の発展と生物の進化は、「変異と選択」によってもたらされるという点で似ていることがよく分かる(もちろん、制度と生物の進化には大きな違いもある)。
ときに人類は突然変異的な制度も生み出してきたが、その多くは淘汰され、その場・その時代に適性を持ち得た少数だけが次代へと受け継がれた。異なる制度による異なる道を歩んできた社会に、別の場所・時代で優位だった制度を移植することは、空を自由に飛び回るための翼を、大海を泳ぐ魚に植え付けようとする行為なのかもしれない。ただし、結論を出すのはまだ早い。フクヤマはまだまだここからも議論を展開していくのだ。フクヤマの議論を待つばかりでなく、自らの頭で世界をこのように捉えてみたいと思わせる一冊である。
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こちらもフクヤマと同じく、人類を先史時代まで遡り、全地球的に考察を展開していく一冊。考察の対象は制度ではなく、戦争である。なぜ、人類は戦争を克服できないのか。戦争は逃れられない宿命なのか。こちらも上下巻の圧倒的なボリュームで描き出す。戦争を語るための出発点となる一冊。レビューはこちら。
リーマンショックにユーロ危機。西洋はなぜ衰退してしまったのか。中国、インドが急速な経済成長を続ける中、莫大な債務を抱えた西洋諸国はどうなってしまうのか。「民主主義」「資本主義」「法の支配」「市民社会」という4つの西洋を支える制度は限界を迎えたのか。ファーガソンもまた、制度を起点に掘り下げていく。
「われわれはどこから来たのか」という問いは、ヒトを惹きつけてやまない究極の問いだ。ジャレド・ダイアモンドは本書で、ニューギアでのフィールドワーク中に現地人から投げかけられた、「なぜ、白人社会とニューギニアの発展にはこれほど差があるのか?」という素朴な疑問と向き合い、西洋発展の起源を追い求めていく。Kindle版も発売され、より入手しやすくなった。
『政治の起源』で語られる商鞅という男のことがどうしても気になってしまい、購入した一冊。司馬遷による古典を中国史の大家が翻訳したものである。翻訳者が亡くなってしまったため、列伝の全てが収録されているわけではないが、各列伝につけられた考察までも目が離せない。これ以外にも『イギリス個人主義の起源―家族・財産・社会変化』や『インド―傷ついた文明』などを購入してしまった。あぁ。