本書の著者ローレンス・クラウスは、長年、第一線で活躍してきた宇宙物理学者である。興味のある研究テーマは、彼自身の言葉によれば、「宇宙の始まりから終わりまで」だという。もちろんクラウスは、半分は笑いを取ろうとしてそんな言い方をするのだが、しかしそれは彼の本音でもある。クラウスは本気で、宇宙の始まりから終わりまでを知りたいと思っているのだ。
クラウスは専門の論文を多数発表しているほかに、一般向けにも多くの著作があり、邦訳されているものだけでも、『物理学者はマルがお好き』、『SF宇宙科学講座│エイリアンの侵略からワープの秘密まで』、『コスモス・オデッセイ│酸素原子が語る宇宙の物語』、『超ひも理論を疑う│「見えない次元」はどこまで物理学か』、『物理の超発想―天才たちの頭をのぞく』、『ファインマンさんの流儀』がある。本国アメリカではテレビやラジオへの出演も多く、You Tubeで彼の活躍を見ることもできる。科学の普及活動が高く評価されて、昨年は全米科学審議会から「公益賞」を授与された。今やクラウスは、アメリカにおける物理学の「顔」なのである。
多彩な活動を展開するクラウスだが、物理学者としての彼の底力を印象づけるのが、本書の中でも語られている、真空のエネルギー、いわゆる「暗黒エネルギー」をめぐるエピソードだろう。
今日では、宇宙の全エネルギーの七十パーセントほどは、暗黒エネルギーによって占められているという説が広く受け入れられている。しかしほんの十五年ほど前までは、そんなことは誰も考えだにしなかったのである。というのは、場の量子論という二十世紀物理学の精華ともいうべき理論を使って計算してみると、空っぽの空間には無限大のエネルギーが含まれていることになるのだが、無限大のエネルギーというのは物理学的には意味をなさないから、きっと何か巧妙な数学的メカニズムがあって、いろいろな効果からの寄与がきれいさっぱり打ち消しあい、真空のエネルギーはぴったりゼロになるはずだと、ほとんどの物理学者は決め込んでいたからだ。じっさい、宇宙のようすを観測する限り、たとえ空間にエネルギーが含まれていたとしても、その値は限りなくゼロに近いはずだという判断もあった。
ところがクラウスは、一九九五年という早い時点で、マイケル・ターナーという物理学者とともに、真空のエネルギーは、非常に小さくはあるけれどもゼロではないという、あきれるような説を提唱したのである。非常に小さいのなら、ゼロと同じことではないか、と思われるかもしれない。だが、どういうわけでかゼロではない小さな値が現れるというのは、恐ろしいほどに高い精度を誇る理論的な観点からは、とてつもなく気持ちの悪い話だったのである。当然というべきか、クラウスとターナーの説はほとんど誰にも相手にされなかった。
しかしその後、一九九八年になって、超新星という特殊な天体を調べていた観測家たちが、宇宙の膨張速度は、減速しているどころか、むしろ加速しているという驚くべき結果を得たのである。膨張が加速しているということは、宇宙空間そのものにエネルギーが含まれている可能性を示唆していた。つまり、クラウスたちの主張が観測面から支持されたかたちになったのである。
その観測結果に直面して、真空のエネルギーはゼロだとばかり思っていた物理学たちの目から鱗が落ちた。こうなってみて初めて、空間のエネルギーがぴったりゼロでなければならない理由など、どこにもなかったことに気づいたのである。かくして物理学者たちは、今度は大挙して、ゼロではない真空のエネルギーが存在するという立場に乗り換えたのだった。
このときクラウスが、それ見たことか、俺の言った通りだっただろう、と鼻高々になったとしても不思議はなかったろう。なにしろ彼とターナーは、観測結果が発表されるよりも何年も前から、その可能性を指摘していたのだから。ところがクラウスは物理学者たちに、ちょっと待て、頭を冷やせ、アインシュタインの宇宙定数(のような振る舞いをする真空のエネルギー)の存在を、そんなにあっさりと認めてしまっていいのか、と言い出したのである。
この一件で彼がとった行動は、「理論物理学者たるもの、かくありたい!」というような、ほれぼれするほど格好良いものだった。理論家としては、あらゆる可能性を探ってみなければならない。その結果として、もしも真空のエネルギーがゼロでなければ、矛盾が解消し、新たな展望が開けるということがわかったのなら、それを指摘する勇気を持たなければならない。しかし、いざその説を支持しそうな観測データが出たなら、データの信頼性を批判的に検討し、その結果に対して考えられるかぎりの解釈の可能性を、ひとつひとつ潰していかなければならない。それが健全な科学の進め方だからである。クラウスはこの重大な局面で、それを身をもってやってみせたのだ。
歯に衣着せぬもの言いと、物理学者としての鋭い洞察力、たしかな判断力により、ローレンス・クラウスは周囲から厚い信頼を得ている。人気俳優のジョージ・クルーニーが、ブラッド・ピットやマット・デイモンも慕うハリウッドの兄貴分だとすれば、ローレンス・クラウスはさしずめ、アメリカの若手物理学者たちにとっての頼もしい兄貴分といったところだろう。
クラウスはこうして第一線の研究者として活躍するだけでなく、神学者や哲学者たちとのディベートを重ねている。わたしの目には│いや、おそらくは誰の目から見ても│それは非常にガッツのいる作業である。なぜクラウスは、そんな疲れそうなことをあえてするのだろうか? おそらくその理由は、突き詰めて言うなら、意見の違う人たちとの対話を通して、自らの考えを鍛えるためなのだろう。なんといっても、対話により思索を深めることは、ソクラテスのやり方だったではないか、とクラウスは言う。敬して遠ざけるとか、臭い物には蓋とか、触らぬ神に祟りなしとか、そういう当たり障りのないやり方は、クラウスのものではないのである。
そんなクラウスの姿は、何かしら見る者の心に強く訴えかけるものがあるようだ。たとえばこの春、ドキュメンタリー映画の分野では北米を代表するフェスティバルであるカナダ国際ドキュメンタリー映画祭に、ロック・ミュージシャンであり映像作家でもあるガス・ホルウェルダが、「アンビリーバーズ(信じない者たち)」という作品をひっさげて参加した。この作品は、今日もっとも影響力のある二人の科学者が、科学的思考と合理的精神の大切さを伝えるために、世界を行脚する姿を描いたものである。ホルウェルダはこれを、ロック・ドキュメンタリーのような作品にしたかったと語っている。
主人公である二人の科学者のうちのひとりは、おそらくは世界一有名な不可知論者(「神が存在するなんてどうしてわかるの? 存在しないと証明することもできないけれど」という立場)であろう、リチャード・ドーキンス。そしてもうひとりは、自ら反神論者(「神が支配している世界になんて住みたくない!」という立場)を名乗る、われらがローレンス・クラウスである。作品中にはこの二人を応援する立場から、ウッディ・アレン、キャメロン・ディアス、リッキー・ジャーヴェイス、スティーヴン・ホーキング、アヤーン・ヒルシ・アリ、ダニエル・デネットをはじめ大勢の人たちが、インタビューに応える形で登場するという。「アンビリーバーズ」は映画祭の期間中に四回上演され、どの回もチケットは売り切れ、上映後はスタンディング・オベーションがあったと聞く。
もちろん、神を信じるか信じないかは、個人の心の問題だし、そんなことくらいはクラウスだってわかっている。ただ、「信仰は人それぞれの心の問題」と言うだけですべてが丸く収まるほど、事態は簡単ではないのである。クラウスがこれに関してみんなに伝えたいのは、「宇宙のことが知りたいのなら、(啓示などではなく)宇宙に学ぼうよ」ということなのだろう。アリストテレスだってアクィナスだって、おのおのが生きた時代に得られていた知識を総動員して、世界を理解しようとしたのではなかったろうか? 二十一世紀のわれわれがそれをしないのは、知的怠慢というものだろう、と。
しかし、科学は神の存在を否定しているのでは? と思う人は少なくないだろう。だが、じつはそうではない、とクラウスは言う。そうではなく、科学は神を信じないことを可能にするのである、と。このクラウスの言葉は、わたしの胸にストンと落ちるものがある。なぜならわたしもまた、神を信じなくてもひどい目に合わされずにすむ時と場所に生きられることを、ありがたく思わずにはいられない人間のひとりだからである。
クラウスは、神学や哲学だけでなく、さまざまな分野の専門家と交流を重ねているが、それとは別に、一般の人たちの素朴な疑問に向き合うことがとても大切だと考えている。おそらくその理由は、彼自身、プロの研究者ではあっても、「宇宙の始めから終わりまでを知りたい」という、素朴な疑問につき動かされてきたからなのだろう。さまざまな分野の素朴な疑問に向き合うためにクラウスが取り組んでいるのが、アメリカで高い評価を得ているアリゾナ州立大学の『起源プロジェクト』である。クラウスはこのプロジェクトの責任者として、「宇宙が始まる前には何があったのか?」、「宇宙はどのようにして始まったのか?」、「わたしたちはどこからきたのか?」といった、古くから人びとの心をとらえてきた深いテーマで専門家会議を開いたり、その成果を一般の人たちにわかりやすく、そして楽しく伝えるためのイベントを企画したりしている。
本書はそんなローレンス・クラウスが、近年成し遂げられた驚くべき発見を紹介しながら、宇宙物理学の現在を語った本である。クラウスの生き生きとした語り口に、あっと驚くような内容もすいすいと読めてしまうかもしれない。しかし、本書に盛り込まれたことの意味の重さは、むしろ全体を読み終えてから、ボディーブローのように効いてくるのではないだろうか。
考えてもみてほしい。二十世紀の半ばになってさえ、宇宙の起源という問題は、科学で扱えることの範囲を超えているという意見が、科学者のあいだにさえ少なくはなかったのである。「そこから先は科学では扱えない」という壁を作っていたものは、何だったのだろう?
じつはクラウス自身、今、ひとつの心理的な壁に直面していることを、本書の中で率直に告白している。彼は、物理学が環境科学になってしまうかもしれないという可能性に、嫌悪感を抱いているというのだ。
物理学が環境科学になるということは、われわれの知る物理法則は基礎的なものではなく、たくさんの宇宙がある中で、たまたまこの宇宙の中だけで成り立つローカルな法則にすぎないということを意味している。そしてそれはまた、この宇宙がこのような宇宙であるのは、単なる偶然だったということを意味してもいる。もしもそんなことになれば、クラウスがこれまでの物理学者人生をかけて取り組んできたこと│すなわち、この宇宙がこのような宇宙でしかありえなかったことを説明してくれるような、真に基本的な宇宙の法則を明らかにすること│は、お門違いの目標だったということになるだろう。
われわれのこの宇宙のほかにも、無数の宇宙が存在するかもしれないというマルチバースのアイディアそのものについては、クラウスはむしろ積極的に支持している。だが、物理学が環境科学になってしまうということは、おいそれと受け入れるつもりはないのである。
クラウスはこの件についても、最新流行の動きに、あっさりと歩調を合わせるつもりはないのである。そしてそんなところが、彼の魅力なのだと私は思う│とはいえ、わたし自身についていえば、環境科学でもいいではないかという立場から、最近、本を一冊書いたばかりなのだけれど。
結局、本書に通底する大きなテーマは、「人間が頭の中だけで考えることなんて、たかが知れている」ということなのではないだろうか。われわれの知識は、宇宙と向き合うことによって鍛えられる。宇宙はおそらく、われわれ人間の期待や願望に沿うようなものにはなっていないのだろう。それでも、そこには見るに値するだけのものがあるということを、クラウスは│そして本書に「あとがき」を寄せたドーキンスも│ひとりでも多くの人に伝えたいのだろう。もしもこの邦訳を通して、日本のみなさんにそれを伝えることができたのなら、訳者としてとても嬉しく思う。
最後になるが、本書に引き合わせてくださり、翻訳の作業をずっと支えてくださった文藝春秋ノンフィクション局編集部の下山進氏と衣川理花氏に、心よりお礼を申し上げる。