長らく思い込んでいたことが、記憶ちがいであったりする経験はないだろうか。タイトルに使った『人生に迷ったらバーテンダーに訊け』というのは、誰もが知る格言の一つだと思っていた。しかし、まわりに尋ねても知らない。『人生、バーテンダー、迷う』でググってもひっかからない。
自分で思いついたにしてはしぶすぎるフレーズだ。しかし、いつか人生に迷う時があったら相談してみたい、と思うバーのマスターがおられたことは事実だ。そのマスターには、お酒の飲み方、クラブでの遊び方から、粋な大人になるにはどうすればよいか、まで、ほんとうにいろいろなことを教えてもらった。
お酒の味を覚えたころから20年は通い続けただろうか。あちこちのバーへ行くけれど、私にとっての本当のバーというと、いまだにその店しかない。カウンターは欅の一枚板で、足下とカウンターには真鍮のバー。奥には虎の皮が置かれたソファ。いまはなくなってしまったが、その隅々まで思い出すことができる。
白衣に蝶ネクタイをしめて、レモンピールをさっとひとふり、チェイサーに香りをつける美しい姿がいまでも目に浮かぶ。マスターがカウンターに立っている時、肘をつくと叱られたような気分になった。なにも注意される訳ではない。睨むでもなく不快な目をされるのだ。だから、背筋を伸ばして正面を向き、すこし緊張して、バーに腕を軽く乗せて飲んだものだ。
この本、もうずいぶんと前に亡くなったマスターのことを懐かしく思いださせてくれた。著者の林伸次さんがそのマスターに似ているという訳ではない。お店のスタイルも、ボサノヴァがかかるワインを中心としたおしゃれなバーである『bar bossa』は、洋酒が中心でクラシカルだった北新地のバーとは相当に違っている。
なのに、どうして、昔のことをこんなに懐かしく思い出したのか、自分でもなんとも不思議である。バーという仕事への心意気、というものが似ているから、いや、似ているように感じたから、なのかもしれない。
中古レコード店に勤めながら、ボサノヴァのバーをやろうと決意する。それから、修業し、準備し、開業し、宣伝し、営業する。どうして今のようなスタイルのお店になったのか、その成り行きと理由が淡々と述べられていく。もちろん、タイトルにある、どうしてネクタイをしているかも。
なるほど、と腑に落ちることばかりである。プリンシプルがとても単純にして明快なのだ。まずは、どんなお店を作りたいか、どうやってお客さんに喜んでもらうか。そして、そのようなお店を維持するためには、儲けすぎることはなくとも、きちんと利益をだしていくことが必要だ。そのためにいいと思うことをまっすぐに進めていく。
この本の前半では、そういったことが、まるでご機嫌なマニュアルのように軽やかに語られていく。あまりに簡単にあっさりと書かれているので、適当な場所とちょっとした資金があれば、バーを開けそうな気がしてしまうほどだ。もちろんそんなに甘いものではないはずだ。
バーのマスターにいちばん大事なのはカクテルの作り方などではなくて、接客だという。これは経験から学んでいくしかないだろうし、誰にでもできるものではない。だからだろう、後半の章は、いろいろなお客さんと、その人たちへの対応について書かれている。なかでも『人間関係は酒場で学べる』の章がいちばん含蓄に富んでいる。いくつかの項目を紹介したい。
『バーでのキス問題』は、店内でいちゃついてキスをするカップルについての考察と対処についてであり、『もう来ないでください』は、来てほしくない客に、どのようにして意思表示するかのノウハウである。基本的にアルコールのはいったお客さんを相手にする商売である。むずかしくもあるが、なんだか笑える。
かなり驚いたのは『もしバーを「不倫禁止」にしたら』のところ。禁止にしたら、四割は売り上げが下がりそうです、って、ほんまですか?『男女の仲が、変わるとき』によると、男女のカップルが寝た経験があるかかどうか、は、“う~ん、まぁ、わかりますね”とのこと。やっぱりバーのマスターは違うのである。しかし、ここまでてくると、ちょとこわいのである。
”学業を終えて、就職するまでの一年間をバーテンダーとして修行する” という、『バーテンダー修行法、施行?』に書かれている提案はすばらしい。諸手をあげて賛成したい。“バーテンダー修行ほど世の中がよく見える経験は他にない“というのがその理由なのだが、この本を読むと十分に納得できる。
客の内面を見すかしがら、なにも気づいていないかのように振る舞うのがバーテンダーのたしなみだ。いよいよ奥が深い。若い頃の私は、カウンターの向こうのマスターにどう見えていたのだろう。人生に迷って相談する機会はなかったけれど、天国で会ったら尋ねてみたい。
そう思ったら、独特のアクセントで『仲野さん、天国やと思ったはるんですか』と、にやっと笑いながら言う、かつて行きなれたバーのマスターの顔が浮かんだ。いいバーのマスターというのは、いつまでも見守って警句を発してくれるものでもあるようだ。天国でも地獄でもどこでもいいから、会ってお礼を伝えたい。
ノンフィクションの名手・海老沢泰久による、何人かの名バーテンダーについての本。この本に『人生に迷ったらバーテンダーに訊け』というようなフレーズがあったのかもしれない。絶版です。