『アノスミア』 - 失われた”匂い”を求めて

2013年10月1日 印刷向け表示
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アノスミア わたしが嗅覚を失ってからとり戻すまでの物語

作者:モリー バーンバウム
出版社:勁草書房
発売日:2013-09-20
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アノスミアとは嗅覚脱失の症状を指し、匂いを感じる能力がないことを意味する。かつてシェフを目指していた著者も、交通事故をきっかけに嗅覚を失ってしまった経験を持つ人物だ。本書は、その喪失から回復までの日々を、当事者としての立場から綴った一冊である。

 

嗅覚は身体の中で最も直接的な感覚であるという。どんな匂いもはじまりは一個の分子に過ぎず、体内に入り込まなければ始まらない。ゆえに息を一回吸うたび、分子は鼻孔を抜け脳へと伝わっていく。そのプロセスはほぼ解明されているのだが、分からないのは分子から始まったものを「これは◯◯だ」と意識するに至る仕組みの方である。既知の匂いであることに気付き、何の匂いであるか判断するプロセスには、未解明な部分が多いのだ。

 

嗅覚がないことの最もありふれた弊害は、調理や摂食に関する問題である。匂いの知覚には、鼻から空気を吸ったときに感じる鼻先香と、口の奥からゆっくり鼻に抜ける口中香の二種類がある。食べものを粗食している時に喉の方から上がってくるのが口中香の方で、味を感じるための重要な役割を果たしていることは、あまり知られていない。

 

また、安全の感覚を脅かされる危険性とも隣り合わせだ。嗅覚が失われると、単に段ボールとハンバーガーの区別が難しくなるだけでなく、火災、腐敗した食物などの危険を知らせてくれる感覚も失われる。この牛乳は新鮮なのか、腐っているのか。このほうれん草は新しいのか、古いか。頼れるものは視覚のみ。

 

どんな感覚であろうと、失うことは一大事であるだろう。ただ、とりわけ嗅覚は「沈黙の感覚」とも呼ばれ、その影響の大きさに気付いた時の衝撃も大きい。著者は匂いが無くなることによって、自分の周囲が見慣れない、淀んだ世界に見えたのだという。何もかもが突然二次元になってしまい、まるで映画の中で動いている自分を見ているようになってしまったのだ。

 

さらに、目には見えないこの喪失を周囲に理解してもらうこともまた難しい。何といっても、匂いは言語を寄せ付けない。匂いを表現する言葉は、いずれも比喩で表現される感覚であり、つねにほかの感覚との比較で語るしかない。言葉が抽象であるのに対し、匂いはあまりにも固有である。

 

このように本書の前半部では、嗅覚の科学的な知識から「私」自身を引き算することによって、臭覚の輪郭を描き出していく。だが科学的な内容でありながら、その一部始終を綴ったモノローグから漂ってくるのは、文学的な「匂い」でもある。

 

それは本書が、匂いと情動の関係という領域に踏み込んでいることにも起因する。古くから数多くの文学作品において、匂いによって掘り起こされる記憶というテーマは多くの人を魅了してきた。そして著者自身、嗅覚と同時に、匂いと結び付いていた人や場所、出来事の記憶も失ってしまっていたのだ。

 

だが、転機は突然やってくる。諦めきれずに厨房に立っている時に、不意を打つように襲ってきたのは、ローズマリーの香り。しかもこの香りがきっかけで、子供時代にコロラドで乗馬をしていた場面までもが、まざまざと蘇ってきたのである。

 

ゆっくりと着実に、匂いは一つずつ戻ってきた。ローズマリー、チョコレート、中には自分の脳味噌の匂いという、読み手に想像のつかないようなものも含まれていた。だが、全てが順調に思えたその矢先、著者の鼻はいきなり大暴れを始めてしまう。遠くはなれた場所のプールの塩素、近くのベンチのスパゲティのスパイシーな香り、水辺における汽水のにおい。集中出来なくなるくらいの情報量を、キャッチし始めたのである。

 

喪失から回復、そして過剰へ。この辺りの記述は、非常に興味深い。脳の可塑性という現象を、エッセイの形式を借りて表現しているという印象だ。そして、著者は完全なる機能の回復を求めて、オリバー・サックスをはじめとする数々の有識者たちを訪ね始める。

 

その過程を通じて学んだ、嗅覚に関するいくつかの興味深い事例が、本書の後半で紹介されている。排気ガスやコーヒーや洗濯用の宣材も、みんなスカンクの匂いになってしまった中年女性。臭覚が回復したものの、すべての匂いがニンニクになってしまい、意図的に臭覚を消してしまった人物。匂いだけで病気の正体をつきとめる教授…

 

また昨今では、特定のにおいと結びついたPTSDが話題になることも多いが、これには脱感作という解決方法があるそうだ。PTSDに悩む帰還兵を装甲車やサバクの見える三次元シミュレーション空間に入れ、ちゃんと振動する作り物の銃、人工的に合成したにおいなど外傷的記憶と結びついた強烈な感覚刺激にさらしながら、少しずつ慣らしていくというものである。

 

一方で著者自身の機能回復は、決して直線的には進まない。トレーニングの効果は毎回必ず出るとは限らないし、身の回りの人との間に発生する情動の変化にも、大きく左右されるのだ。最終的には、匂いを嗅いだ時に「頭で考えない」ためのトレーニングを積むことで、回復への道筋を立てていく。

 

嗅覚を喪失し、回復する。機能的にはプラスマイナスゼロに過ぎない。だが、そのプロセスを通じて人体の神秘に気付きを得、さまざまな逸脱を介して感覚の持つ意味を探っていく。科学の話と心の話をつなぎ合わせることによって、情動の世界を鮮やかに描き切っているのは見事というより他はない。

 

一つの分子が鼻孔から入り込み、脳で解釈する。そのインプットからアウトプットまでの流れの中に、奇跡的に浮かび上がる「私」という存在の断片。まさに全身の感覚を総動員して、受け止めたい一冊である。

 

妻を帽子とまちがえた男 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

作者:オリヴァー サックス
出版社:早川書房
発売日:2009-07-05
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