あなたが見ている空の青さと、わたしが見ている空の青さが同じとは限らない。同じ波長の光が網膜に届いているとしても、その刺激が他人の中でどのような知覚をつくりだしているかを正確に知る術はなく、今あなたの目の前に広がる世界は、あなただけの世界かもしれない。
ヒトはどのように世界を見ているのか。
ヒトはどのように世界と繋がっているのか。
本書はこの捉えどころのない問いに、心理学はもちろん、生物学に哲学、さらにはロボット工学を交えながら挑んでいく。コオロギの驚くべき求婚能力が紹介されたかと思えば、アフォーダンスの哲学的考察へ至る本書の展開は、さながら知のジェットコースターのよう。振り幅が大きく、猛スピードで進んでいくが、確実に我々を目的地へと連れて行く。そして、このジェットコースターは、チンパンジーの事例からスタートする。
ある動物園で暮らすサンティノという名のチンパンジーは、ちょっと変わった日課を持っていた。その日課とは、動物園の開園前にそこらの石を拾い集めて積み上げておき、来園客に投げつけるというものだ。サンティノを10年間にわたって観察した認知科学者は、この日課を「将来の計画に基づいた行動」であると解釈した。これまで、将来を見据えて周到に準備を進めるような高度な認知能力はヒトにしか備わっていないと信じられていたため、世界のマスコミがこのニュースに飛びついた。
しかし、サンティノは本当にヒトのように考え、行動したのだろうか。霊長類の認知と行動の研究を専門とする著者は、次のように疑問を投げかける。
人間本位の独りよがりな世界観のせいで、サンティノのような類人猿がとる行動の真の動機ばかりでなく、他のさまざまな動物種の行動を支配している要因をも見逃しているということはないだろうか?
擬人化バイアスは、「複雑な認知なくしては複雑な行動は取り得ないという思い込み」の現れであり、この思い込みこそが私たちの世界を見る目を曇らせているのだと著者は主張する。実際には高度な認知能力などなくとも、知性を感じさせる複雑な行動をすることはできるからだ。
熱帯雨林を中心に生息するケアシハエトリという、巧みなハンティング能力で知られるクモ喰いグモがいる。数あるハンティング技術の中でも特に注目すべきなのが、森の中で獲物を探しているときに見せる迂回行動である。迂回するということは、獲物を視界から外さなければならない。つまり、獲物の位置を記憶し、獲物へと至る直線的でない道筋を計画する必要があるということだ。これは、いかにも高度な認知能力を必要としそうな行動ではないか。
ところが、実に単純なルールに則って動くロボットによって、ケアシハエトリの迂回行動は再現できる。そのルールとは知覚に関するものであり、長期記憶も計画性も必要としない。高度な認知能力は、迂回行動の必要条件ではないのだ。この事実だけから「ケアシハエトリは高度な認知を持っていない」とは断言できないが、節約を旨とする進化は、よりシンプルなシステムを採用した可能性が高い。
ロボットで迂回行動を再現するために、ルールを規定するプログラムと同じくらい重要なのが、ロボットが置かれる環境とロボットの形状である。いかに優れたプログラムが搭載されたロボットも、何も見えない暗闇では獲物を認識することはできないし、自由移動を可能にする車輪がなければどんな行動も起こせない。ケアシハエトリの高度なハンティング能力は、水中や歩脚なしでは発揮されない。彼らのハンティング活動は、進化を遂げた地で、進化の末に辿り着いた身体と脳を備えていてこそのものなのだ。
我々が知能と感じるものは、脳だけによって生み出されているわけではない。我々を取り巻く環境、身体、そして脳とが相互作用することによって実現されている。著者は、ユクスキュルの環境世界、ギブソンのアフォーダンスをベースに議論を進めながら、ありのままに世界を見る方法を探っていく。
観念的になりそうなトピックだが、この思考の先には、極めて具体的なビジネスの種、金脈が眠っていた。MITでロボット工学を研究していたロドニー・ブルックスは、認知処理などできなくとも、巧みに機能するロボットを作成可能だと考えた。そして試行錯誤の末に、「世界をみずらかの最良のモデルとして使用した」ロボットを作り出した。このアイディアをもとにブルックスが創立したのがiRobot社であり、その主力製品がロボット掃除機ルンバである。
本書は、擬人化バイアス以外にも、我々が陥っているバイアスを次々と暴いていく。当たり前だと考えていた世界のとらえ方の基盤が、いかに脆弱であるかという事実を突き付けてくる。どんな行動も自らの意思で行ったものだと考えていないか?脳は外部からのインプットをもとに身体に指令を出すコンピュータのようなものだと思っていないか?この本を読み終わる頃に、うろこが何枚も落ちた目であなたが見る世界は、本書と出会う前とはすっかり変わっているに違いない。
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本書でも繰り返し強調されているが、脳が果たす役割は決して小さくない。そんな脳の意外な一面を最新の研究結果を紹介しながら、分かり易く解説していく。レビューはこちら。
環境世界という概念を構築し、新たな世界のとらえ方を示した一冊。100年ほど前に提案されたものだが、今でも新しい。『野性の知能』を読んだ後に読むとより理解しやすい。松岡正剛氏も旧版を千夜千冊で紹介している。
アフォーダンス理論に関する著書を多数持つ佐々木正人氏が編者となって、身体と認知の関連性を考える。こちらは今月でたばかりの、「知の生態学的転回」3冊シリーズの1冊目である。