善次郎は、力の限り走っていた。
右胸と顔を刺されてなお、生きることを諦めてはいなかった。
迫り来る死の恐怖を振り払いながら、彼はどこへ向かおうとしたのだろう。
薄れ行く意識に抗って、彼は何を考えていたのだろう。
80歳を超えた老体とは思えない懸命の走りも、暴漢の追撃を振り切ることはできず、背後から咽頭部を切りつけられた銀行王・安田善次郎は、82年の人生に幕を閉じることとなる。100歳まで生きたとしても完遂できないほどの事業計画と、2億円を超える資産を残して。
善次郎が亡くなった1921年の日本の国家予算は15億9100万円。つまり、彼はたった一代で、国家予算の10%以上の資産を築いたことになる。単純比較はできないが、現在の国家予算(約92.6兆円)を基準に考えると、善次郎がいかに稼ぎまくったのかが想像できる。
富山の下級武士家庭で生まれ育った彼は、どのようにしてこれほどのお金を稼いだのか。手形交換所、中央銀行、生命保険など現在の金融を支える仕組みを、どのように考え、現実のものとしたのか。そして、激動の明治・大正時代において日本経済の基礎を築いた男の非業の死に、なぜ世間は冷たい反応を示したのか。
本書は、その業績に反して”知る人ぞ知る”人物になってしまっている、安田善次郎の生い立ちから死の瞬間までを描き出す。2010年に出版されたものの文庫版であり、578円という入手し易い価格となっている。巻末には善次郎の曾孫である安田弘氏の解説も加えられている。
本書のフォーカスは、長年にわたる鎖国から解き放たれ、世界へ打って出ようとする日本で、彼が次々と成し遂げた大事業と彼の経営哲学に当てられる。日米和親条約、日米通商条約の締結をきっかけとした金の国外流出、西南戦争に端を発するハイパー・インフレと、次々と時代を襲う荒波に反して事業を拡大させていく善次郎の活躍ぶりには、舌を巻くばかりである。数え切れない成功は、単なる「逆張り」では説明がつかない。
何が善次郎を成功へと駆り立てたのかを知るために、彼が非業の死を遂げた1921年から、時計の針を巻き戻そう。
1851年、13歳の善次郎は衝撃的な光景を目にする。普段は仰ぎ見るほどの存在であった勘定奉行(藩の財政を預かる重職)が、平身低頭で来客をもてなしていたのだ。しかも、その客は侍ですらなく、両替商の代理人であった。「大商人は上級武士をも平伏させる力があると知った」彼は、身分を越えて出世できる商人の道を志した。
善次郎は行動の人であった。大商人を目指すと決めたら、富山の田舎でじっとしているわけにはいかない。彼は、江戸を目指して15歳で初めての家出をした。”初めての”と書いたのは、その後何度連れ戻されても、諦めることなく家出を繰り返し、ついには両親を説得して江戸に出ることに成功したからだ。
この行動力は長じてからも変わることなく、自らの目で、投資先の企業、救済すべき銀行の実態を確かめることを怠らなかった。そして、”これは”と思った機会には、周囲が驚くほど大きな賭けにでた。周りからは博打に見えても、自らの足で稼いだ情報を持つ善次郎にとっては、十分勝算のあるものだったのだろう。もちろん、失敗や挫折も数多くあったが、彼は激変する時代における「動かないリスク」を誰よりも重く感じていたのではないか。善次郎が渋沢栄一や高橋是清らの歴史を彩るスター達と次々と新たな事業を仕掛けていくところが本書の読みどころだ。
節約を旨とした善次郎は、寄付の依頼を断ることも多く、”ケチ”というイメージが広く定着していく。世間から理解されることはなかったが、彼には譲れない思いがあった。彼は、単にケチだったわけではないのだ。本書では、善次郎の自著『富之礎』から、次のような言葉が引用されている。
富者は社会に対する義務を忘れてはならぬ。其れは公共慈善事業に金を投じて報ゆるもよいが、尚必要な事は、関係の業務を厳重に監督して常軌を逸せざるようにし、益々、事業の正当なる発展をはかることである
銀行王として数多くの企業が倒れていく姿を間近で見てきた善次郎は、お金の重要性、お金の”生きた使い方”を誰よりも深く理解していたのだろう。漠然とした寄付よりも、自分の事業にお金をつぎ込んだほうが、より社会のためになるという自信があったのだろう。周りには分かってもらえなくても、不利益を被ることがあったとしても、彼は銀行家としての信念を曲げることはなかった。変化のスピードが増すばかりの現代を生きる我々は、100年前の激動を生きた彼の言葉から、揺らぐことのないその行動から、多くのものを学べるはずだ。
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破綻してしまったルワンダ経済を立て直したのは、1人の日本人だった。金融のプロとしてルワンダに乗り込み、ルワンダ中央銀行総裁として獅子奮迅の活躍をした服部正也氏による一冊。読んでいるだけで体が熱くなってくるのを感じる。
銀行の大再編の現場を生きた、元三井住友銀行頭取、前日本郵政社長である西川氏の自伝的一冊。
同和団体のドン・小西邦彦と銀行との知られざる関係を暴きだす。Vシネマの世界のような現実が生々しく描かれる。