『名前とは何か なぜ羽柴筑前守は筑前と関係がないのか』小谷野敦 青土社
好き嫌いが別れる著者であろうが、私は小谷野敦が好きである。「東大を出たのに何でもてないのだ、おかしいじゃないか」など大人は思っていても言わないものだが、言っちゃうところがよいじゃないか(『もてない男』『帰ってきたもてない男』)。大学院時代、自分より早く脚光を浴びた先輩やらに嫉妬を隠さないところがいいじゃないか(書名は忘れた。いろいろなところに書いているから)。最近は小説書いて芥川賞候補になったり、ネットで喧嘩ふっかけたり、ふっかけられたりしているみたいだが、本書を読む限り、リズムの良い文体と、「何某の持論は間違っている」という歯に衣きせね物言いの気持ちよさはかわっていない。
本書は小谷野があとがきで書いているように、何かひとつのことについて述べた本ではない。題名にある、「筑前守はなぜ筑前と関係がないのか」の説明に、つまり武家官位については一章を割いているが、それは関心の入り口であり、人名全般について歴史的に論じた内容になっている。
書名にもなっている筑前守といえば、筑前国の国司の長官である。律令制下では貴族が、朝廷から任命され、実際、その地で仕事をしていたわけだが、その後、任地に赴かなくなるケースも出始め、平安以降、形骸化していく。室町時代は武家が勝手に名乗るようになる。羽柴秀吉が九州と関係ないのに筑前守を名乗ったのも信長から拝命しただけだし、加賀の前田利家が筑前守を名乗ったのも秀吉から拝命した(紛らわしいが)。これらは朝廷から与えられたものでない。
江戸時代になると幕府は武士に官位を与える権利を得る。大名以外の幕府直参の旗本でも二千石以上の禄高を持つと「守名乗り」が認められる。「なにの守」を自分で勝手に選べるのだ。幕府は同じ姓で重複がないかだけを調べる。勝姓ならよいだろうが、筆者が言うように水野姓などなら確認も大変になるわけだ。
本書では名前について広範に論じているが、記述が多いのが諱(いみな)についてだ。
名ひとつの現代から見ると、不思議な感じだが、昔は日本でも中流階級以上の人々は名前が何回も変わった。幼名、通称、いみな、号などがある。現代の我々が明治以前の歴史上の人物の知っている名前というのは大概が諱である。諱とは実名ではあるが、「忌み名」と呼ばれるように、存命中には文書以外では使われない。幼名で呼ぶことはあっても諱では決してないというのだ。徳川家康が秀忠を息子だからと言って「おい、秀忠」とは呼ばない。竹千代か中納言だったらしい。8代将軍の吉宗も大岡越前守忠相のことをテレビでは「忠相」と呼んでいるが確実に変だという。越前が正しい。
逆に、呼び方がわからないケースもあるという。高倉天皇の中宮・平徳子はナルコかノリコか謎のままだ。決して呼ばれたことがないのだから、呼び名など誰も知らない。
重要なことは諱は使わないにしても、当時は人には、いろいろな呼び方があったということだ。正解はないのだ。人の呼び名に。筆者も呼び方はひとつでないことを本書で言いたかったひとつだと記している。
これは現代に生きる我々からすれば混乱するが、我々が苗字ひとつ、名ひとつで生きているから、わかりにくいだけだ。かつては名前をどんどん変わっていったし、勝手に名乗る土壌があったのだ。最近では、作家ですら、号を使わなくなったし、名前が浸透してきたからと襲名を拒む落語家も増えている。だが、歴史を振り返れば、名前とは別に、誰か他者の便益のために名乗るものではない。まあ、戸籍制度が確立された現代において、「明日から名前変えます」など言い出したら著者が言うように変人扱いされるのは間違いないだろうけど。