「何か」がおかしいのは分かっている。でも、その「何か」がよく分からないからもどかしい。売春島、偽装結婚、ホームレスギャル、シェアハウスに貧困ビジネス。自由で平和な現代日本の周縁に位置する「あってはならぬもの」たち。それらは今、かつて周縁が保持していた猥雑さを「漂白」され、その色を失いつつあるのだという。
著者は、『「フクシマ」論』でおなじみの社会学者・開沼博。私たちがふだん見て見ぬふりをしている闇の中で目を凝らし、現代社会の実像を描き出す。本書のベースとなったのは、ダイヤモンドオンラインでの連載でも好評を博した「闇の中の社会学」シリーズである。
明治以前から売春を生業とする島
その孤島では、島の宿に宿泊するか、あるいは置屋に直接赴くかすれば「女の子」を紹介される。「ショート」の場合は一時間で2万円、「ロング」がいわゆる”お泊り”を指し4万円。女の子の割合は日本人と外国人が半々か、やや外国人が多いかといった様相だ。その島の実態は、遊女の置屋で成り立つ「売春島」なのである。
中部・関西の一部の人々を中心に知られるこの島は、古代からの「風待ち港」であった歴史を持つ。風が吹かず舟を進められない日が続くと、海の男たちは海上では口にできない料理に舌鼓を打ち、航海中に調達できない水上遊女に、安息を求めたのである。明治以降、島自体が「風待ち港」としての役割を終えてからも、「伝統産業」は大きな役割して島を支え続け、現在に至るという
池袋、深夜のマクドナルド
終電を逃した大学生やビジネスパーソンの中に混じって、若い女性が二人。顔立ちはまだ10代後半のようだが、肌は荒れ、ボサボサの茶髪は痛み放題。一見分かりづらいが、グレーな貧困に包まれた若年ホームレスなのである。そんな彼女たちの仕事は「移動キャバクラ」。
駅の喫煙所などでライターを借り、いけると踏んだら、名刺を渡して普通の居酒屋へ行く。キャバ嬢のようにガンガン接待をしてから料金交渉に勤しむ。だいたい一回の相場は、5000円から1万円であるという。カネが入れば二人でインターネットカフェやカラオケ店に宿泊する。ないときはマクドナルド
これら二つの風景は、現代の田舎と都会の対比でありながら、その根底で通じ合う。2003年にオープンした「パールビーチ」を代表に、「表」の顔を作ろうと躍起になっている「売春島」。浄化作戦が進む中、情報化・デフレ化の波を活用することで生み出された「移動キャバクラ」。
グレーゾーンの中の白と、白の中のグレーゾーン。一方は隔離・固定化され、一方は代替的なシステムによって補完される。結果的に空間は均質化され、「あってはならぬもの」が不可視化されていく。出会うはずのなかった両端は、同じ方向を向いているのだ。
激安シェアハウスに集う人々
若者の新しいライフスタイルの潮流ともなっているシェアハウス。この時代が生んだ「新しい共同体」にも、忍び寄る魔の手がある。ある日シェアハウスの住人が「やばい人と会った!」などと興奮気味に話しかけてきたら要注意。いつの間にやら、物件にネズミ講のブランド名が書かれた大きなダンボールが定期的に届くようになったりする。
さらに「オフ会ビジネス」なるものも存在する。ネット上で「集まろう」という動きを意図的に作り、人を集めてチェーン系居酒屋で飲み食いして利益を出すというものだ。「選択的・流動的・短期的」な「新しい共同体」の誕生と、「貧困」や「夢」や「孤独」。そこには周囲でうごめく商才鋭い人々が控えているのだ
生活保護受給マニュアル
ヤミ金にハマった人物が、生活保護を受給するための研修があるという。仲介しているのはヤミ金の運営者自身。「ご案内」に書かれているマニュアルは以下のような記述が… 「部屋をゴミ屋敷にしておく」、「金目の物がある場合、正直に申告し、こちらで預かることにする」、「家賃を最低二ヶ月滞納する」。数週間の準備を経て申請を果たした人物には、後日、生活保護支給決定の通知が届くことになる。
「あってはならぬもの」を「あってはならぬもの」が取り込み、社会の見えぬ部分で、「インフォーマルなセーフティネット」として機能し始める。「純粋な弱者」ではない「グレーな弱者」はやがて、不可視な存在となり、社会の中で潜在化されていく
こちらの二つで提示されているテーマは「住居」と「社会保障」だ。かつて、多くの人々の安定的な生活を支えるために形作られてきた住居やセーフティネット、確固たる価値観がもはや現代において無効となる一方で、その代替物となるものが自主的に構築され始めている。ここに戦後社会が守ってきたものの時間軸における帰結を、見てとることができるのだ。
本書ではこの他にも、「性・ギャンブル・ドラッグの深淵」、「暴力の残余」、「グローバル化の真実」といったテーマが登場する。これら数々の事例に対し、著者は空間的、歴史的、立体的に考察を交えながら、巧みに補助線を引いていく。
規制が強化されることによって、悪が不可視化されていく。この主張自体は、それほど目新しいものでもないだろう。だが、この不可視な世界を「無縁」というキーワードで紐解いていくところが興味深い。最近ではネガティブな論調で語られることの多い「無縁」という言葉も、歴史を遡っていくと両義性があり、それは「自由」という概念にも極めて近いものを持っていたのだという。
「周縁的な存在」が現代に残る「無縁」の一つの形態だとするならば、それが本来見せていた「人の魂をゆるがす文化」や「生命力」も衰えつつあるのではないかと著者は指摘する。それは、ひいては「弱者の弱者化」ということへも密接につながっていくのだ。
かつて「色物」や「色事」に十分な色が残っていた時代、その支配的な眼差しは「色眼鏡」という形で表現されていた。それは、「周縁的な存在」が社会の表面にせり出さなくなった今、「見て見ぬふり」という行為に取って代わられつつある。
「もっともらしいこと」を語り、何も問題が解決しないどころか、むしろ問題の根底を見失わせる。これもある意味において「見て見ぬふり」と同義であるだろう。このような「漂白」時代の新しい「色眼鏡」が、負の連鎖を生み出す一端を担っていることに無自覚であってはならないのだと思う。
本書は学術論文的な考察と、ルポルタージュとしてのリアリティ、その双方を兼ね備えた「論文ルポルタージュ」とでも言うべき新感覚の一冊である。その中では、「あってはならぬもの」同士が相互に接続しながら、もう一つ別のレイヤーを作り出している構図が、鮮明に浮かび上がっている。久々に「ぐうの音も出ない」という言葉を思い出した。
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