「エクソシスト」という映画を知っているだろうか。少女に取りついた悪魔とキリスト教の神父の壮絶な戦いを描いた作品で、現在でもホラー映画の傑作と呼ばれている。特に恐ろしいのは主役の少女が悪魔に取りつかれ、不可能なポーズで奇声をあげる場面だった。あの映画の影響で、私は未だにホラー映画が苦手だ。
東条健一は子供のころ、守銭奴の父に苦労させられたが、大学卒業後はマスメディアでの金融情報の営業や大手報道機関の社会部記者を経てPRやブランディングの専門家となり、ビシネスの成功者となった。キャビン・アテンダントの妻との間に娘を授かり、子育てにも一所懸命。将来は順風満帆だと信じていたのだ。
しかし、その娘「リカ」に異変が見えたのは2歳を過ぎたころからだ。生まれて1歳過ぎまでは大人しくて手のかからない子と褒められていた。しかしいつになっても言葉を話さない。口から発せられるのはキィーーーーーと超音波のような奇声だけ。誰とも目を合わせようとせず、かかとを地面から垂直の位置まで立てた極端なつま先立ちをする。夜になると背骨が折れそうなほどのエビ反りになりベッドの上で10分以上も跳ね続けかん高い悲鳴を上げ続ける。その姿は「エクソシスト」の少女そのままだった。
夫婦は小児科を渡り歩く。しかし「様子を見ましょう」という答えが返ってくるばかり。周りの人間は「親の愛情が足りない」と無責任に責める。そんななかで友人のドクターから児童精神科医を紹介された。診断結果は自閉症。それもかなり重度で、一生ことばを話せないだろうと宣告される。自閉症は病気ではなく、脳や神経の障害である。治療法はない。映画の『レインマン』でダスティン・ホフマンが演じた男性は自閉症の中のサヴァン症候群という、ある分野で天才的な才能を持つ人だ。日本のドラマでもスマップの中居正広が演じた『ATARU』が同じサヴァン症候群である。音楽を一回で覚えてしまったり、絵画や色彩に特殊な能力を持ったりする自閉症児はごくわずか。リカには特別な才能はみられない。
最近になって自閉症児の脳のニューロン数が平均より大幅に多く、脳の重量も重いことがわかってきた。出生前の神経の発達段階で何かの障害がおこり、自閉症となるのだ。愛情不足は全く関係ない。東条夫婦は治療法を求めて民間療法を渡り歩くがどれもリカには効かない。
ひとつの情報が舞い込んできた。自閉症児を改善していくプログラムがカリフォルニアのUCLAで行われているという。それは「応用行動分析学」といい、行動を細かいステップに分解して、一つ一つの行動をほめて伸ばし、やがて複雑な行動を習得させるという。イヴァ・ロヴァス博士が1987年から行った研究で大きな成果がでているらしい。
このロヴァス博士の門下に上智大学心理学科の中野良顕教授がいた。訪ねて行った東条夫妻は、ロヴァス式応用行動分析による日本語に合わせた訓練法を開発中であることを知る。リカをこのプロジェクトの対象者にすることを即断したふたりだったが、週に40時間の訓練とその費用に怯えた。
その日から5人の大学院生のチームが組まれ、最大で週40時間の訓練を小学校にあがるまでの3年間続けることになった。まずは環境の整備だ。壁やカーテンは刺激のない穏やかな色にし、収納家具はすべて蓋のついているものにする。子どもが喜ぶごほうびを20個以上用意する。このごほうびは「ある行動の直後に好ましいことがあると、その行動をくりかえす」という人間の行動原理を利用して訓練するために必要なのだ。
勉強する場所では勉強しかしてはいけない。飽きたらすぐその場を離れる。これが第一のセオリーだ。普通の人にもそれは応用できる。不眠症の治療のひとつに、眠くなるまでベッドにはいかない。眠れなければベッドから離れる、という治療法がある。それによって集中力が高まるのだ。
リカの訓練が始まった。最初の課題は椅子に座ること。「座って」と大きな声で指示を出し、誰かがサポートして座らせる。すかさず、リカの好きなクッキーや絵本、おもちゃなどを与え、大げさにほめる。ほめ方は舞台俳優なみに大きくはっきりと、笑顔をいっぱいにみせてほめる。それをひたすら繰り返す。その日だけで、リカは10秒ぐらい座っていられるようになった。次は「おいで!」だ。指示と同時に大きく手を広げる。介助者はリカの背中を押して腕の中に入れてやる。同時に「すごいねー!!」とほめる。そうやって小さな行動ひとつひとつをできるようにして、その行動を繋げていくのだ。
一緒に訓練を受けていた東条は、これは普通の人にも使えることだと気付く。ルールは3つだけ。「はっきりと指示する」「失敗させない」「すぐに強化する」。最後の「強化」とはほめられて出る“やる気”。ほめられて嫌な気がする人は少ないが、日常生活で叱責は多くあってもほめられることは少ない。ビジネス書などで「部下はほめて伸ばせ」とよく書かれているのは、このことであったのかと思い当たる。
リカの訓練は順調に進み、いよいよ言語を発する訓練に突入した。人のまねをすることを覚えさせた後、息をふくということを学習する。そこに音を乗せたら声になる。声が出るようになったら、今度は言葉の概念を覚えさせる。リンゴがどういうものか理解させる15のステップが紹介されているが、根気以外のなにものでもない。しかし順々に課題をクリアしていくリカの姿を思い浮かべると、心から応援したくなるのだ。そしてある日、突然、自分のことを「パパ」と呼んでくれる日がやってきた。
言葉も文字も色も認識できないと言われた娘が、今では自分の欲求を父親に伝えることができるようになった。この訓練法が日本で行われるようになってまだ数年だろう。しかし本書を読むと、今まで絶望的だった自閉症児への希望が見えてくる。それと同時に、人間も動物であり、応用行動分析が日常生活におおいに行かされるべきだと感じた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
本書は自閉症治療の決定版と言われ、ロヴァス教授の治療プロセスを日本の第一人者でリカのプロジェクトの責任者、中野良顕著教授が訳したもの。一昨年発売されたので、知らなひとも多いかもしれない。
私が自閉症というものを初めて知った本。自閉症の人が自らを語ることができるとは思われていなかったのだ。名著です。