タイトル『言語の社会心理学』だけでは、抽象的で伝わらないし、内容の推測も難しい。しかし、装丁と帯をよく見てみると、本書のことを伝えようとする気迫が伝わってくる。
副題は「伝えたいことは伝わるのか」
帯には、「ことばは「文字どおり」には伝わらない」
背表紙からは、「伝えたいのに伝わらない」
裏返すと、「伝えたいことを伝えるために」
ここまで何度も伝えられれば、さすがにメッセージが伝わってくる、「あなたも(伝えたいことが伝えられないなら)、買ってください」と。どうでもいいが、既に「伝」の漢字を15回も使っている、この後が不安だ。
著者は、ことばとコミュニケーションに関して社会心理学的な立場から研究をしている。就活の面接対策でよく話題になるメラビアンの法則では言語の力は7%に過ぎない(口調や話の早さなどの聴覚情報が38%、見た目などの視覚情報が55%)と言われているが、そのことについても、正しく理解がされていないと嘆いており、ことばが伝達すること、その研究に並々ならぬ思いを持っている。本書の装丁にも、伝えることにかなりのこだわりを持ったのかどうか?は謎である。
外見から内容に移ろう。繰り返しになるが、伝えたいことが伝わらないから本書のような書籍が本棚にならぶのだ、その一例として誤って伝わることで、生まれた悲劇がある。
踏切を待っていた女性がいた。しかし、いつまで立っても遮断機があがらず、見渡してみると「こしょう」というサインが点滅し続けている。踏切が壊れていると思った女性は、遮断機を手で持ち上げて踏切の中に入った。その瞬間…、列車にはねられ即死した。
「こしょう」というサインの解釈が行き違いになった例だ。女性は遮断機が壊れていると勘違いし、横断を試みた。一方の当事者であるJR東海は「遮断機にトラブルがあるから、通報してほしい」という合図するための表示として「こしょう」を考えていた。この事故の後、表示は廃止されることになった。
生命に関わるクリティカルなものは数多く登場する事例のほんの一部、身近な生活に役立つ小ネタや、あちゃーと自分自身の気まずい発言を思い出す、冷や汗ものの失敗が続々登場する。
とりわけ、理解してもらうのが難しいのは自分自身のことではなかろうか。自分のことを伝える手段として、自己開示と自己呈示の2種類が紹介されている。自己開示は正直に包み隠さず話すことであり、自己呈示は相手に良く思ってもらうために、都合良く情報を出し入れすることである。
自己呈示の1つに「栄光浴」という種類がある。社会的に評価が高い集団や個人と近い関係にあることを主張するというもの、意識高い系の人が使う常套手段、その病が社会に蔓延っているので、知らずうちにあなたも栄光浴を利用しているかもしれない。
試験の前日に「親族が来て、全然勉強できなかった」やスポーツの試合の前に「体調がよくない」と、自分に不利な条件にあることを口走る、これはセルフ・ハンディキャッピングと呼ばれる。失敗したときには、自分の自尊心を守り、うまくいったときには不利な条件に打ち勝ったと、自分が優れていることを証明できる、口にする本人にとっては損がないことだ。しかし、周囲から見れば、ただの言い訳、よい印象を残さない。
セルフ・ハンディキャッピングや踏切の「こしょう」の例にあるように、自分の意図が相手に伝わっていないことは、伝える側からは認識が難しい。多くの誤解の背景には、相手の視点に完全に立てないことがあるようだ。
伝わる伝わらない以外にも、方言と標準語の印象の違い、皮肉の本質、職場での「さん付け運動」の由来、意味や機能が希薄化し13もの状況で使われる「おつかれさま」、しゃべっていないの伝わる理由、など広範囲かつ多角的に、コトバと心理の関係を明らかにしていく。
浴びせられるように連続するコミュニケーションの失敗を学んだ後に、15ページに凝縮された上達への心がけは、驚くほど具体的で、染みるように伝わってくる。就活シーズン真っ盛り、下手な面接対策を読み漁るより、本書を買った方がお買い得だ。
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「言語が“文化”と“思考”にどのように関わっているか」について書かれた本。言語が、ある時には「生まれつき」であり、ある時には「社会の影響を受ける」ことを明らかにしていく。高村のレビューはこちら。
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