初代南極観測船「宗谷」のいわば伝記である。今年2月に「船の科学館」で古希を迎えたこの船の人生は、じつに波乱に富んだものであった。本書から略歴をまとめてみよう。
昭和13年に進水したときの船名は「ボロチャエベツ号」だった。ソ連が耐氷型貨物船として発注したのだ。しかし、戦争直前であったためソ連に売り渡されることはなく、竣工時には商船「地領丸」となった。開戦前の昭和15年には海軍が買い取り、測量もできる輸送艦である特務艦「宗谷」として、新しい任務についた。終戦後は引き上げ船時代を経て、灯台補給船となったのだが、昭和31年、南極観測船として大改装が施され、日本を代表する船となったのだ。
その後の巡視船時代を含め40年にわたる現役時代をひとことで言うと「とてつもなく強運な船」ということになる。ソロモン諸島の北を航海していた「宗谷」は敵潜水艦から攻撃を受けるのだが、魚雷は不発に終り、ぎゃくに駆潜艇と協力して敵潜水艦を撃沈してしまう。トラック島空襲では座礁したままで応戦し、50隻もの艦船が沈められたにも関わらず生き残ってしまう。
そしてついには、予算が限られているため新砕氷船を建造できない日本は「宗谷」を改装して大役を務めさせることにしたのだ。第一回目の航海では氷に閉じ込められ、因縁浅からぬソ連の「オビ号」に救出されるというドラマまで用意されていた。
本書の冒頭では戦前の19世紀的な自由主義経済のなかで、新興企業がアイディア次第でぼろ儲けしながらも、産業を再編していく様子が見てとれる。「宗谷」を建造した造船所のオーナー川南豊作が、製薬業で一世を風靡した星一と重なるイメージで鮮烈だ。同じことを現在の日本で行えば、国策捜査の対象になってしまうであろう。
中盤は読み応えのある戦記物だ。戦記物に必須な要素であるディテールを極めた記述だ。人名には正確で長い職名が添えられているし、戦闘においては分単位での記録が記載されている。それにしても「宗谷」は神がかり的に運の良い船である。あらゆる方面を航行したにもかかわらず、小破で済んでいる。
南極観測時代をあつかう後半は、個性豊かな人たちによる人間ドラマだ。「南極探検」を発案して推し進めた朝日新聞記者の矢田喜美雄がじつに魅力的である。下山事件謀殺説でも有名な矢田は若いころにはベルリンオリンピックに走り高跳びで出場している。矢田は朝日新聞に最も金を使わせた男としても有名である。こんな人物はいまでは要注意人物として検察にマークされるに違いない。
ともあれ、後半のもう一つの魅力は当時の東大という最高学府にひそむ権威たちのおバカさ加減だ。水泳訓練において東大教授の永田隊長を抜いてはいけないという不文律があったなどとは笑止である。そもそも南極観測の発案を矢田から横取りし、あまつさえ東大卒ではないと理由で隊員から外したという。
人生の最後に巡視船となった「宗谷」は生涯で1000人ほどの命を救ったのだという。ほとんどの船がスクラップになるなかで、「宗谷」は高校生たちが署名をはじめたことで保存されることになった。最後の最後まで運の良い船であったらしいのだ。
梅雨が終わったら「宗谷」を見るためにお台場の「船の科学館」に行ってみよう。ちなみに「宗谷」のプラモデルは作る予定はない。かなり難しそうなのだ。いつも参考にしているHIGH-GEARedさんというプロの模型製作者が「艦船キットの製作初心者には少々苦労があるかもしれません。」のなどというのだから恐ろしい。とはいえ船舶模型に興味があるかたは、是非この方のサイトを見てほしいものだ。感動すること請け合いである。ホームページ中の「Scale Models」がそれだ。