例えば、「HONZでレビューする本」が予め誰かに決められていたら、このレビューのような、本当に書き終わるのかとハラハラする文章が書かれることは、多分無かった。また、例えば、サッカーの審判がレッドカードを出しまくって選手の自由な動きを止めてしまったら、そのゲームは大変つまらないだろう。おもしろい結果を出す組織は、最低限のルールと、ルールに従って自由に考える人達で構成されている。ハイエク教授が主張したこのような考えは、とても自然で納得できるものだ。でも、ナチスやソビエトのような全体主義が世界に台頭した頃、その意見はまだ少数派だった。「世界はようやくハイエクに追いついた」と、本書のオビは言う。
私は今まで、ハイエクという思想家についてあまり勉強したことがなかった。もちろんノーベル経済学賞を受賞した人であることは知っていたし、自由至上主義者(リバタリアン)の元祖だということも知っていたけれど、でも、その程度だ。そんな自分が何故この本を手に取ったかといいえば、たぶん、「伝記」だったからだ。経済の理論についてというより、ハイエクという人がどのような人生をおくり、何故リバタリアニズムに落ち着いたのかに興味があった。本書は、400ページ以上を費やし、ハイエク教授の人生を丁寧に追った本だ。たった1冊でわかるような事ではないけれど、でも、本書からビシビシと伝わってきたのは、ハイエクという人が猛烈に「考える」人で、しかも、妥協しなかったということだ。“私は本質について考えたい。他の細かいことは気にしません。”という強烈なメッセージが全般的に感じられる一冊である。
そんな「考える人」ハイエクは、さまざまな場所で開催された「勉強会」で醸成されたように思われる。若かりし頃に過ごしたウィーン大学には、上司であったミーゼス教授が開催する勉強会と、ハイエク教授自身が主催する勉強会があった。本人主催の「ガイストクライス(精神の仲間)」は何よりも知的自由の理想を追求することが目的で、入念に準備した発表が重視されたが、「発表者は、自分の専門分野のテーマを取り上げてはならない」というのが原則だった。ミーゼス教授が主催する勉強会では、幅広いテーマが気軽に議論され、「理解することを理解する」ためのものだったという。勉強会は夜7時から始まり、終わった後は近くのイタリア料理店まで皆で歩いていき、その後も深夜まで大学前のカフェで議論を続けた。参加者は皆、更なる知識を求めて自発的に集まってきた者ばかりで、最初は「生徒の集まり」だったが、だんだんと「友人」になっていった。第2次大戦前のウィーンは、大変知的な街だったのだろう。
その後、ハイエク教授は、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスとシカゴ大学でもセミナーを開催している。シカゴ大学でのセミナーについては、こんな感じだ。
夕食後、専攻や国籍を問わず、優秀な者も青二才も、ゴシック風の会議室に集められ、オーク材の巨大な楕円テーブルに座って、ハイエクが提案するトピックについて議論した。決していい加減ということではなく、議題は哲学、歴史、社会科学、知識全般を網羅していた。
ウィーンでの勉強会のようである。集まった学生は、日本、中東など様々な場所からやってきた将来有望な人間だった。学生以外の出席者も錚々たる顔ぶれで、まずは原子物理学者が2人、1人はイタリア人のノーベル賞受賞者(エンリコ・フェルミ)、もう1人はハンガリー人で、あらゆる分野で発明や企画に関わってきた人だった。それ以外にも、アイルランド人の古典学者で農作業をやっている人物や、無神論者の神学研究者、ニーチェ好きの考古学者、遺伝学の大家(シューアル・ライト)などが参加した。経済学者のミルトン・フリードマンは、エンリコ・フェルミの「測定の概念」についての話が、自分の研究に大きな影響を及ぼしたと述べている。文系理系入り乱れ、さぞかし楽しい会だったに違いない。
この勉強会が象徴するように、ハイエク教授は「自律した個人の集合体」としての社会を理想形とした。誰もが最低限のルールを知っていて、その範囲において自由に活動することにより、全体としての秩序が出来上がる。それは、私には「複雑系」の発想に非常に近いように感じられる。「複雑系」は、現在ホットな研究分野であるから、まだ馬車が走っていた頃に生まれたハイエク教授が一体どれくらい時代に先んじていたかと思うと驚きである。全体主義が隆盛の時代、それが個人にとって不幸への道だと言い、社会にとっても非効率だとした。喩えて言うなら、ものすごく厳格で行動を制限する親がいる家の子供は、不幸で、家全体としても効率が悪い、と、親に向かって言ったようなものだ。そして、子供が自立するためには私的財産が必要だと言い、親ほど賢くなくとも「価格」と「ルール」で情報をやりとりすれば最も競争力が高いシステムになると言った。それが正しいかどうかは、歴史が説明しているように思われる。そこまでには長い苦難の道があった。ハイエク教授自身はそこに留まらず、そこからさらに、「システム内のシステム」について検討する。確かに、「法人」同士の競争のように、自立した個人から1つの秩序が出来上がったら、今度はその秩序同士が影響し合うことになりそうだ。「複雑系」は複雑なのだ。コンピュータもない時代に、全部自分で考え切ろうとしたのか。周囲の人には理解してもらえないだろうと思っている、とも述べている。偉大なる孤高である。
ハイエク教授は、学生時代の自らの勉強法についてもインタビューに答えている。
授業中ノートをとることは止めた。ノートを取り始めると、理解できなくなってしまうのだ。他者の考えについて読んだり聞いたりすると、自分の考えに新たな色合いがついていく。
本を読んで、その内容をまとめることはできない。そこから何を学んだかは説明できるだろう。しかし、自分が納得できない部分については、飛ばしてしまう。
・・・。私は今、本を読み、内容をまとめていて、引用すらしている。そして最近の生活はといえば、インターネットで情報に触れすぎて、考える時間は少なく、「毛虫かぶれ」みたいな小さな問題を気にして暮らしている。うーむ。。せっかくハイエク先生が目指した世界に暮らしているのだ。もっと自由に動け、自分。まあ、とりあえず、本でも読んで、レビューを書こうか。HONZがいつか、「勉強会」みたいになったらいいなあ。
単純なルールが、驚きの組織をつくりだす。成毛眞のレビュー ・ 村上浩のレビュー 、あります。
ポピュリズムに陥らないためには、「必要悪」として、ある程度のパターナリズム(家父長主義)が不可避なのではないかという問題提起の本。
ハイエク教授のノーベル賞授賞式でメインテーブルに招かれた日本人がいました。
松岡正剛様の『千夜千冊』の記事 が大変に詳しいです。