俳句と言えば何を思い浮かべるだろうか。年寄り趣味の代表格、自分のメッセージや感動の自己表現、五七五や季語を入れるなどルールが多そう……。そういった先入観をいったんチャラにして、俳句を「自分の外に出るためのゲーム」として捉えなおそう、というのが著者の提言だ。
その第一歩は「俳句は自己表現の手段」という考え方を否定すること。そもそも人間の「言いたいこと」なんて高が知れているが、自分の「言いたいこと以外のこと」は無限だ。
俳句は自分の意図ではなく言葉に従って作るもの。自分で思いつかない表現・自分の発想の外側に着陸し、無限から引き出した発想が17音の中に集約される。そうして出来た作品には奥行きや味わいが生まれ、読む人により多様な解釈が可能となる。
「高度に知的な言語ゲームである」とも言われる俳句の醍醐味は句会にある。句会では、数人で俳句を持ち寄り(投句)、どれがだれの句かわからないようにして人気投票し合い(選句・披講)、ああでもないこうでもないと評を述べ合う(句評)。
句会のいちばんのおもしろさは、じっさいに俳句を作ることにはない。他人の俳句を読んで人気投票したり、みんなであれこれ評しあったりすることにある。句会にとって「より本質的な」楽しさは、作句ではなく句評にある。だからそっちを味わってみるのが先決だ。
初心者にも配慮し、本書では「俳句経験ゼロでも、一句も作らなくても、句会を開く方法」が紹介されている。俳句は参加者が詠むかわりに『現代の俳句』のようなアンソロジーを用意。そして「高浜虚子」「中村汀女」など、アンソロジーに名を連ねる特定の俳人を自分の代役に立てれば十分だ。
この句会、興味はあるが取っ掛かりがつかめないものでも、仲間うちでワイワイ親しむうちに自ずと良し悪しや好き嫌いのセンスが磨かれてくるという、よく出来たシステムだ。ワインのテイスティングや日本酒の利き酒など、俳句以外の応用も我々には馴染み深い。
俳句を作ってみようという段になると、初心者は「言語論的転回」を経るという。
第一段階 自己表現期 「こういう内容を言いあらわそう」と考えて、それを表現するために言葉を捜す。意味が全部分かりすぎの、読み手としては「で?」っていうしかない俳句か、舌足らずで意味不明なボケボケフレーズができる。
・・・・・・・・・<言語論的転回>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
第二段階 自動筆記期 意味不明の自動筆記のような句ができる。
第三段階 前衛俳句期 意味不明だが読者たちが想像でいろいろと補える句が出来る。
第四段階 伝統俳句期 読者たちが想像でいろいろと補って、単一のもしくは複数の意味に回帰する句ができる。
ソシュールや構造主義言語学や記号論や言語哲学が20世紀思想に与えた深甚なコペルニクス的影響を言語論的転回という。それまで、言葉は考えを表現するための透明なツールだと考えられていた。
ところが20世紀には、言語は透明なツールではなく、人間が知ることができることすべてを条件づける不透明な存在であるとか、人間が言語を使って考えるというより言語が人間を使って考えているのではないか、というような考えに転換した。
俳句初心者に置きかえると、個人の内部ではこんな意識の変化が起こっていると言える。
第一段階 結果より自分の意図(言いたい内容)が大事。
・・・・・・・・・<言語論的転回>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
第二段階 自分の意図(言いたい内容)はどうでもよくなる。
第三・四段階 いい結果を出すことが自分の意図。それ以外の意図(言いたい内容)は二の次。
言語的転回を経た人は、自分の着想のために言葉を捜すのをやめ、「XXXという言葉を使おう」と考え、それにあわせるために別の言葉を捜すようになる。人参煮てないのに煮たことにしちゃうし、そもそも蒟蒻干したことないのに干したことにしちゃう。俳句的にはそれが正しいのだ。
これも俳句に限ったことではない。本当に創造的で心からおもしろいと思えるものは、頭で考えてひねり出すのではなく、自分の意図とは関係なく「手段先行・素材ドリブン」で生まれてきてしまうのではないだろうか。旬の食材から創作料理を作り出す料理家、文学・絵画に霊感を受けて名曲を生み出す作曲家、ビジネスでは「プランド・ハップンスタンス理論」もこの考えに近い。
それでも、「俳句って字数制限キツイし季語とか切れとか定型とかルールがきついんだからただでさえ個性なんて出ない……」と制約ばかりに気を取られる方も多いかもしれない。しかし、俳句ではその「お約束」ゆえに「全員に制服を着せたらかわいいことそうじゃない子が残酷なくらいはっきり分かっちゃう、というような意味で」個々の言語センスが測られてしまうことになる。
しかも測るモノサシはひとつだけではない。「ダメな句は全部似ているが、いい句はそのよさが一句一区違っている。」自分を捨て言葉に徹し、「お約束」の枠内に自分のエッセンスを凝縮し、ここにきて本当の「個性」というのが現れてくるのだ。
何かに行き詰まりを感じたとき、現状を変えたいときにも「転回」でアプローチしてみよう。私にとっては読書もそれ自体が目的の娯楽。文章は人間より偉く、レビューも自分の外にある言葉で作るのが「読書論的転回」。自分に最も縁遠いと思われるテーマの本を読む「濫読」の醍醐味もここにある。
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俳句とダンスのコラボレーションで、国語の苦手な高校生たちに俳句の面白さを伝えた著者が、型に縛られずに日常を写し取る俳句の魅力を語る。
『ツァラトゥストラ』に代表されるように、彼の原文自体もリズム感が素晴らしい。「七五調四拍子」でさらに切れ味を増したニーチェの格言(アフォリズム)の数々が、すっと心に入ってくること請け合い。
本書で紹介された俳句入門書。技術論に徹し、俳句の基礎の基礎が体系的に学べる良書。