「単純ヘルペスⅠ型」 ウイルス。 日本人の8割が既に持っているウイルスと言われており、風邪の時や、夏のレジャーで紫外線を浴びた時など、抵抗力が落ちた時に、唇の隅に小さな発疹ができるのが主な症状である。と、他人事のように書いてみたが、かく言う私も「持っている」一人だ。いやー、かゆいんです、これが。そうなった後には、病院で飲み薬や塗り薬が処方されて、友人から「ペス君」等と呼ばれることになるのが定石だ。このウイルスは一旦感染するとずっと体内に潜んでおり、実際に発症する人は全体の10分の1の人らしい。私は敢えてここでもう一度言いたい。日本人の8割は「ペス君」だ。私だけではない。60歳以上の人に至っては、ほぼ全員が感染しているという。「ペス君」と言っても国会のような威厳すら感じられるではないか。多くの人が、長い人生を仲良くやっていくことになるウイルスである。
本書は、このヘルペスウイルスを「癌の治療」に利用する研究について書かれた本だ。癌細胞のみを攻撃し、正常な細胞を傷つけないように遺伝子を組み変えられたヘルペスウイルスが、いま世界中で臨床研究されている。そして、その中のいくつかは、今にも社会に出てきそうなフェーズにある。著者の藤堂さんは、このような動きの中で、自らが開発した最先端の「第3世代」のウイルスを世の中に出そうとしている人だ。現在、初期の臨床試験を行っている段階である。しかし、薬の認可に非常に長い時間がかかり、世の中に出す段階で欧米のプロジェクトに抜かされそうになっている。
なぜ、今、ウイルス治療なのか?ウイルスによる癌治療には、今までになかった多くの利点がある。まずはじめに、(おそらく)副作用がない。むしろ癌に対する免疫ができる。また、骨髄由来を除いた、あらゆる癌に適用できる。何回でも再投与が可能だ。そして最大の利点は、未だ臨床試験の段階のために明確には書かれていないが、どうやら圧倒的に治療効果が高そうなことだ。実験では、50時間後に癌細胞がほとんど全滅した。これがどれくらい画期的な治療法かということについては、著者の藤堂さん自身は心底実感しているに違いない。藤堂さんは、もともとは脳神経外科の臨床医として勤務し、悪性の脳腫瘍の患者さんを担当していた。手術・放射線療法・抗がん剤などの現在の治療法では治すことができない「不治の病」を相手に格闘した経験が、本書にも記載されている。ウイルス療法に出会ったのは、1994年のことだ。『サイエンス』誌にウイルス療法についての論文が掲載されているのを発見し、これは画期的な方法だと直感した。そして、論文を書いた教授に「留学したい」と手紙を書き、「無給でもよければ」という条件に、依存無しと答えて家族で渡米した。
その時読んだ『サイエンス』誌の論文は、「第1世代」のウイルスの実験に関するものだった。留学時代には、さらに効果が高い第2世代・第3世代のウイルスの開発に携わった。第3世代は自らが提案したものだ。教授に開発を直訴し、実験の許可を得るまで1年かかった。現在は日本に帰ってきて、そのウイルス「G47Δ(デルタ)」を世に出すための研究を行っている。
ウイルスの「世代」とは何だろうか。世代の数は、遺伝子をいくつ組み換えたかという「癌に効く理由の数」にあたる。詳細は本書をご参照頂きたいが、例えば、第一世代の研究では、「ウイルスが癌細胞でのみ増殖するようになる」遺伝子γ34.5や、「癌細胞だけが破壊されるようになる」ICP6遺伝子が組み変えられた。第2世代(ウイルス「G207」)では、これらの2つの遺伝子を同時に組み換え、特に安全性を重視したウイルスが開発された。そして、藤堂さんは、α47という遺伝子の組み換えを行うことを提案し、第3世代の開発に成功した。
α47という遺伝子を組み替えると、通常は免疫システムに検知されないヘルペスウイルスが、隠れミノが取れて検知されてしまうようになる。その結果、ウイルスに感染している癌細胞も同時に免疫系に攻撃されるようになるのだ。この効果は大きく、第2世代のG207ウイルスと比較して10倍の効果を発揮するようになった。ウイルスの安全性は10倍高くなった。さらに、製造コストも1/10にできる。
このように良いことずくめのウイルスG47Δを、藤堂さんは開発した。私は勝手ながらこのウイルスを「スーパーペス君」と呼ばせて頂きたいと思うが、第3世代の癌治療ウイルスは、今のところ、世界でこれしかない。特許権も日本とカナダとオーストラリアで藤堂さんが所有している。日本が誇る成果の1つと言えると思うが、これが患者の許に届くまでには、長い道のりが残されているらしい。日本の制度が壁だ。藤堂さんが臨床試験の実施計画を厚生労働省に持っていったのは2006年の春だった。そこから、提出書類が準備できたのが一年後の2月、書類が受理されたのはその8カ月後、試験自体が承認されたのは、なんと3年後である。そうしている間にも欧米では第1世代・第2世代のウイルスが最終の臨床試験が行われており、2011年には遂に製薬会社が参入した。製薬会社が参入すると言う事は十分に勝算があるということであり、いずれ近いうちにウイルスが薬になるのは間違いないという。日本が慎重になっている間に海外の企業が市場を制するというのは、いつかどこかで見た光景だ。それでも藤堂さんは、これで日本でも注目が集まるようになり、研究がやりやすくなるという。
遺伝子組み換えを怖いと思う人は、特に日本で多いそうだ。実際には、医薬品に用いられているタンパク質のほとんどは遺伝子組み換えで作られている。また、ウイルスは遺伝子を組み替えるほど病原性が減少する事が確認されている。そのなかでも、ヘルペスウイルスは人間と仲良くやっていけるもので、遺伝子の機能もよく解明されており、安全性が高い。ウイルスが変異を起こして強くなることは決してない。様々な意味で、革命的な癌の治療法だ。将来的には、様々な特性を持たせたウイルスを複数使用し、カスタムメイド治療を行う事も考えられるらしい。ウイルス療法が、いつか、日本の死因トップの地位から「癌」を引きずりおろしてくれるかもしれない。がんばれ、スーパーペス君。じゃなかった、G47Δ(デルタ)。
癌を治すのがウイルスなら、癌をつくるのもウイルスかもしれない。それだけではない。じつは、進化はウイルスが担ってきた。ウイルスをめぐる壮大なお話。
いまも様々なウイルスが生態系に大きな影響を与えている。久保洋介のレビューをどうぞ。
ウイルスを研究する人たちの興味深いキャリア。村上浩のレビューをご参照ください。
海外では自宅ガレージでバイオテクノロジーに挑む人々が。内藤順のレビューはこちら。
2012年度のインテル国際学生サイエンスフェアの優勝者の研究は「カーボンナノチューブを用いた、すい臓がん用ペーパーセンサー」だった。従来技術より168倍早く、26667倍安く、400倍感度が良いらしい。。これが高校生の研究なのか、おそるべし、「理系の子」。成毛眞の今年の1冊に候補入りした一冊。