現代を代表する歌人の河野裕子が亡くなったのは2010年の夏だ。河野の死後、夫の永田和宏が妻の遺品の整理をしていて、ティッシュ箱を捨てようとしたときに目に入ってきたのが箱の上面の文字だった。横や裏にも文字は並んでいた。薄い文字で書かれていたが間違いなく歌の断片だった。ティッシュの箱だけでなく、薬袋や封筒にも文字は残されていた。死後、細胞学者であり歌人でもある永田や同じく歌人の娘、歌に造詣が深い息子とそうした河野の「遺作」を解読して、整理する姿はテレビや書物でも紹介された。モルヒネの投与を拒み、最後の最後まで歌人として生きた河野は「手をのべてあなたとあなたに触れたときに息が足りないこの世の息が」という名歌を死ぬ前日に残したことでもしられる。そのため、気力を振り絞って必死に歌をうたいつづけたとの印象も抱きがちだが、ティッシュのエピソードからはむしろ、自然体で歌をうたい続けたというのが真実の河野の姿に近いことがわかる。
河野裕子は戦後生まれで初めて角川短歌賞を受賞するなど女性短歌界のスターだった。といっても、私は短歌は全くわからないため生前は名前を知っていた程度だ。たまたま私の妻が永田とその家族の短いテレビ番組を河野の死後に製作したことがあり、本書で触れられている冒頭の話も知った。当時は、私の想像力が乏しいためか、正直、「暖かいけど濃い家族だな」という認識程度しかいだけなかったというのが本音だが。
これまでも永田が河野との半生を振り返る書籍は河野の死後に数多く出版されている。本書の新しい点は永田が河野の癌発症後の闘病生活の10年間を包み隠さず書き綴った点だ。前述のように河野の作歌の日々の息遣いが聞こえてくる反面、精神的に変調をきたした河野の攻撃性と家族との修羅場も嫌でも伝わってくる。河野の気の強さはこれまでの著作からも想像できたが、包丁をテーブルや畳に突きつけ、家族に罵詈雑言を浴びせつづける姿は永田がいうように正気ではない。温厚な永田は耐え続けるが、あるとき、椅子をテレビに投げつけ、花瓶をテーブルに叩きつける。出口の見えない日々に永田は死んでしまいたかったと当時を冷静に振り返る。
壮絶な生活を送る中で両者を結びつけていたのが歌だ。河野はどんなに荒れていようと歌を雑誌などに出す前には永田に見せて、永田が認めた歌以外は公にはしなかった。彼女が正気とは家族も思っていなかったが、精神科などへの入院措置をとることはなかった。河野の歌の中に抗いようがない発作と戦う苦しみを打ち出した歌も少なくなく、永田は哀れみかもしれないとしながらも「遠くにやってしまうことができなかった」と語る。癌再発後と同時期に新聞に共同で連載を始めたことも二人の関係をより近づけた。連載のめどは2年。主治医に告げられた余命も約2年。新しい仕事でありながら、最期の2人の時間を完結させる作業にもなった。
歌人同士だからこそ、普通の夫婦以上にわかりあえることもあったのだろう。だが同時に互いが歌人であったことが死後、永田を苦しめた。本書は時系列で河野が残した歌、そして永田の歌を辿りながら当時の心情を紐解いている。永田が、死後、妻が残した歌を見つけて愕然とする。手術後、その日の内に仕事で病院を離れたあの時。家に帰りたくないため、夜遅くに帰り、家の灯りが消えているとほっとしたあの時。妻の歌を見るたびに、「思いやりにかけていた」と後ろめたい気持ちになる。普通ならば知りえない感情まで、幾多もの歌が残されたからこそ、そして自分も歌人であるからこそ相手がその歌を詠んだ時の息遣いまでわかってしまう。世の中には死者の思いをくみ取れずもがく人が数多くいるが、知りすぎてしまうことが必ずしも残された者を幸せにするわけではない。
永田は河野が家族に引き起こした問題について「それらをあからさまに書くということに、果たして意味があるのか。彼女を傷つけることになりはしないか」と本書の刊行の意義を自問し続けた。河野裕子の歌の背景を知ってもらいたいという気持ちから敢えて公にしたという。確かに本書は河野裕子が残した歌に文脈を与え昇華させることになるだろう。同時にこうした作業は永田の中の河野に対する後ろめたさを解体する作業にもなっただろう。それこそが最期まで「歌人」として生きた河野裕子だけでなく、「妻」河野裕子への最高の弔いではないだろうか。