『宗教とツーリズム』という題を見て、抜き差しならない何かがありそうな気がしたのだ。喩えて言うなら、ボランティアと偽善、とか、お金と愛、とか、処女より娼婦のほうが心は清純とか、そんな感じで、宗教なの?ツーリズムなの?どっち!という話ではないかと勝手に想像、よっしゃ、いってこい!とひっそりネット購入した。この本ベースにいろいろ無責任な事を考えたら、きっと楽しいに違いない。
2007年、「宗教と社会」学会の研究プロジェクトの1つとして、「宗教とツーリズム」研究会が立ち上げられた。本書は、この「宗教とツーリズム」研究会からの11編の研究成果をまとめたものだ。
1980年以降、ツーリズムは世界最大の産業になった。UNWTO(世界観光機関)によれば、世界の旅行者の数はおおむね右肩上がり、今では年間10億人に迫っている。これを踏まえ、ツーリズムが宗教にも影響を与えているのではないか、というのが「宗教とツーリズム」研究会の問題意識だ。確かに、「世界遺産」の例を見ても、宗教に関連した「聖地」が観光の対象となっており、その結果、聖地そのものも変化しているようにも思われる。でも、「宗教学」の領域においては、ツーリズムと宗教の関係についての研究は、ほとんど無いのが現状らしい。というか、同列に論ずるのは論外という空気があるという。だから、「宗教とツーリズム」研究会では、テーマに対するアプローチから自分で考える必要があった。結果として、アニメ『らき☆すた』の舞台となった埼玉県の鷲宮神社における「痛絵馬」の研究など、大変自由なテーマが検討されてきている。
本書は3部構成になっている。1部では「聖地の成り立ちと観光」、2部では「巡礼」、3部では「世界遺産」が取り上げられ、それぞれの部に3つか4つの研究成果が含まれている。その概要を、少しずつご紹介したい。
第1部に採録された『鉄道と霊場』では、明治10-20年代、関西の私鉄が、住吉神社・法隆寺などの神社仏閣へのアクセスを目的として設立されたことを述べ、その互恵的な関係が述べられている。大正時代になると鉄道会社が主導権を握り、出開帳や集印を通じて「霊場の編集」を行うようになるのが興味深い。次の『「湘南」の誕生と江の島の変容』では、「日本三大弁才天」として竹生島や厳島と並び称された「江の島」の歴史が語られる。明治時代の神仏分離の時期、弁才天から急激に神道に転じていく過程において、島の案内者も「奇妙奇天烈の説明」を行ったという。交通の変化も興味深い。もともとは満潮時には完全な孤島、干潮時に砂州が現れる聖地であったため、満潮時には「負越」という人足の肩に担がれて渡るか、もしくは船で渡航していた。明治になって初めて木製の桟橋がかかり、徐々に「日帰り」「立ち寄り」観光地化していく。また、今では湘南の夏といえば海水浴というイメージがあるが、「海水浴」は横浜居住地の外国人が持ち込んだ文化で、その自由外出範囲内にあった湘南や江の島が、格好の候補になったという。さいごに『観光再生と伊勢神宮』では、お伊勢参りを支える地元のホストと旅行者の認識のギャップ(伊勢志摩ってどこでしたっけ?愛知県?和歌山県?)を踏まえ、「伊勢神宮らしさとは何か」ということについて考察される。
第2部では「巡礼」に関する研究が紹介されている。『惜しみない旅』では、ピレネー山麓のルルドという巡礼地を取り上げる。ここは聖母出現伝説を起源とし、奇跡を期待する傷病者を中心に、年間600万人の巡礼者を受け入れている。傷病者と彼らをサポートするボランティアの間には、異邦人同士、傷病の有無を超えたコミュニティが生成されるらしい。日常生活においては幸福の指標は相対的なものになりがちだが、ルルドでは全く気にならないらしい。おもしろい。『信仰なき巡礼者』では、スペイン北西部の聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラが取り上げられる。1986年時点では年間2500人にも満たない閑散とした巡礼地だったが、世界遺産に指定、映画や小説でも取り上げられて観光地としての認知度が高まった結果、今では年間10万人以上が巡礼証明書を受け取る巡礼地になっている。『道をブリコラージュする』では、日本代表、四国のお遍路が取り上げられる。地元住民による統制されていないサポートが、全体としての巡礼路を形成する。最後に『ファンが日常を「聖化」する』においては、アニメファンの「聖地巡礼」と、地元関係者の共犯的な「聖地」形成プロセスが描かれている。
第3部は「世界遺産」について取り上げる。『ヘリテージ化される聖地と場所の商品化』・『宗教ツーリズムにおける真正性と倫理の問題』では長崎の教会群を取り上げ、世界遺産登録に向けた動きのなかで発見された価値と、その一方で発生する「聖なる旅」とは何かという問題について述べられている。『バングラディシュにおける聖者廟と観光開発』では、15世紀の聖人カーン・ジャハン・アリを祀る民間信仰が、世界遺産認定の結果、国とのしがらみを生んでいく様子が考察されている。そして、『負の文化遺産のツーリズム』では、「正当性」「当事者性」「真実感を巡る葛藤」の観点から、何故<アウシュビッツ>が年間138万人もの人が訪問する場所になったのかについて考える。
本書を読んで思うのは、一方で手を取り合い、もう一方では相反している、宗教とツーリズムの立ち位置の微妙さであった。編者の山中先生は、「断片化し非文脈化した宗教を “パーツ” として消費するという事態が加速度的に進んでいる」という。たしかに、自分のことを考えても、神社に行ったら清々しい気持ちになってお参りしているし、結婚式は教会で行い、京都では入場料を払って意気揚々と入場し、海外旅行に行ったときには歴史的な宗教施設を鋭意見てまわっている。それこそ、断片化し非文脈化した宗教をパーツとして消費している象徴的人物と言えるだろう。そして私自身はと言えば、その時その時非常に楽しく、その都度、なんだか心が清らかになったような気がしているのだ。それは「宗教的パーツの断片」に対する敬意なのだろうか。「未知なる何か」に対する期待なのだろうか。宗教とツーリズム、どちらも「未知」を求める活動という意味で似ている。そういえば、お金も愛も「未知」を求めている。お互いに相反するものを期待しているのか、それとも同じものを別の角度から観ているのか。何ともわからないけれど、やっぱりちょっとおもしろかった。買ってみるものだ。気は早いが、もうすぐ読書の秋。ポチる気分もいよいよ増すというものである。
「宗教とツーリズム」と言ったらこの本を外す訳にはいかない。何百年も前に行われていた「聖地巡礼パック旅行」。じつに楽しそうだ。
『アルケミスト』のパウロ・コエーリョが書いた、サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼者を大幅に増やした小説。