コロンビア大学ビジネススクールのシーナ・アイエンガー教授の著書、『選択の科学』は、おそらくHONZの読者にはおなじみに一冊だろう。この成毛代表のレビューを参照にしてほしいが、シーク教徒のインド系移民で、盲目の女性であるアイエンガー教授が、「選択」によって困難を乗り越えてきた自身の生立ちを語りつつ、「選択」にまつわる常識をくつがえすような研究事例をさまざまに紹介した、実に興味深い本だ。未読の方はぜひとも読まれることをおすすめする。2010年11月に発売されて以来、順調に版を重ねており、また昨年秋(今年春に再放送)には、NHKの白熱教室シリーズに「コロンビア白熱教室」としてアイエンガー教授が登場したので、記憶にある人も多いだろう。
そのアイエンガー教授のちょっと意外な新著がこちらである。
「コロンビア白熱教室」のなかでも紹介されていたが、アイエンガー教授は学生たちに、「選択日記」をつけることを薦めている。自身が行った選択を記録し、選択に至るまでの思考や、選択の参考にした情報、そして選択がもたらした結果と、なぜうまくいったのか/なぜ失敗したかなどを書いてゆくことで、人生のおいて最良の選択をできるようになるという。
それらを簡単に書き込むことができる日記に、選択をめぐるバイアスや戦略などについての28のコラムがついたのが、この本である。
さて、前置きが長くなったがここからが本番。実はわれわれHONZのメンバーにも1人、人生の大きな選択に直面している若き男がいる。その男の将来を懸念した成毛代表が、この本の発売に合わせて来日したアイエンガー教授に会いに出かけたのである。
穏やかな微笑みをうかべつつ、われわれを迎えるアイエンガー教授。成毛の言葉にひとつひとつていねいに答える様子は、まるで学生の質問に答えるよう、さながら「HONZ白熱教室」の様相となった。
若きHONZメンバーについて聞く前に、まずは話はアイエンガー教授の著書にも引用された、代表が長く付き合ってきたこの人の言葉について、話が弾む。
一つのことを1万時間やり続ければその道で一流になれるというが、それだけではない。実際には50時間費やしたあとで、9割の人が好きになれない、向いていないといった理由で脱落する。さらに50時間費やした人の9割があきらめる。こんなサイクルが繰り返される。運だけでなく続ける熱意が必要だ。1万時間費やした人は、やり遂げるという意思を持って何度も選び続け、さまざまな過程のなかで選ばれた人なのだ(ビル・ゲイツ)
成毛 教授はこの言葉を引用して「成功する人」の資質について言及していますが、僕は20年間ビルとともにいて、ビル・ゲイツは熱意があるというより、むしろ偏執狂で単なるオタクだと思っているんですが。
アイエンガー ビル・ゲイツは、自分が対象を選択し、同時に対象が自分を選択するのだ、と言っています。この言葉は、成毛さんのビル・ゲイツ観を裏付けていると思いますね。
成毛 ビル・ゲイツの興味の対象がコンピュータだったから彼は成功者となったわけですけど、もし自分が、アニメのコスプレやボディビルディングといった、仕事として成功者になることが難しいものに対するオタクであるとわかったら、どういう選択をすればいいんでしょうね。
アイエンガー 仕事を何にするか、自分のキャリアを選ぼうとしているときに問うべき質問は、「私が求めているものはなんだろうか?」ではなく、「どこの分野で私の価値が上がるのか」ということです。おそらく、自分の付加価値が最大となる分野というのが自分の欲しているものと自分が求められているものが一致している分野ではないかと思いますね。
さて、いよいよ、HONZの若きメンバーの話……、と思いきや、自身の興味のおもむくままに「選択」についての質問を繰り出す代表。
成毛 日本では胃瘻(食べ物や水分を食べられなくなった患者の皮膚と胃に穴を開け、チューブで栄養を注入すること)が問題になっていて、25万人を超える老人がチューブに繋がれて生きています。認知症の老人が手足をベッドに縛られて胃瘻になっている例もあり、そのこと日本の平均寿命に貢献しているふしもあります。このような、終末医療と選択の関係について教えていただけないでしょうか。
アイエンガー アメリカでも、終末医療において、いつ治療をやめるのかという判断を誰がどういった形で下すのがいいのか、ということが大きな問題になっています。第三者が決めること自体がおかしい、という意見もあったり、医師が生命維持装置を外したほうがいいと思っても、家族がイエスと言わない限り外せないが、一方で家族は自分の親の命を止める判断を下したくない、といった問題もあって、これが正解というものはないです。
成毛 誰がどういう判断をしたら、その結果を人は受け入れることができるのでしょう。
アイエンガー ちょっと例が違うのですが、危篤状態の自分の子どもの延命治療を中止して子どもを亡くしたアメリカとフランスの夫婦を面接調査したことがあります。アメリカでは医師は親に治療方針を決めさせ、フランスでは通常医師が決めます。追跡調査をした結果、自ら判断を下したアメリカの親のほうが長く苦しむことがわかったのです。選択の結果が受け入れがたいものである場合、最初から他人の意見を聞くことが、癒しになる場合もあるわけですね。
その後、話題は政治や本のことへと次々と飛ぶ。
「南カリフォルニア大学の調査によれば、平均的な人間は、毎日、新聞にして174紙分の情報を行動化している」
「民主制度は常に正しい選択がなされる制度ではなく、『人々が選択に関与している』ことが機能している制度」
「自分の下した選択が常によい成果を生み出すのだと期待するのではなく、何かを選択をしたときに、その成果をきちんとレビューして、学ぶべきものを見出し、選択の仕方を少しずつよくしていくべき」
そんな興味深い発言に頷くことしきり。すっかりHONZの青年のことなど誰もが忘れそうになったころ、やっと代表の口から質問が……
成毛 HONZ学生メンバーの理系大学院生の井上くんが、いますぐ大学院をやめてHONZ専業になりたいと言っています。彼なりにベストの選択だというのです。たしかにビル・ゲイツもスティーブ・ジョブズも退学という選択をしています。しかし、井上くんもゲイツもジョブズも、もし彼らを「マシュマロテスト」にかけたら、目の前にあるマシュマロを食べてしまう、熟考しないタイプだとも思うんです。雇っても大丈夫でしょうか?
※マシュマロテストは、1960年代に行われた実験で、4歳の子どもにマシュマロを与え、「私が戻ってくるまで食べるのをがまんできたら、もう一つマシュマロをあげる、でもがまんできなくなったらベルを鳴らして」と言い、戻ってくる時間を教えずに立ち去ってしまう、というもの。そして被験者の子どもたちを追跡調査したところ、マシュマロを食べずに我慢できた子どもたちは強い友情で結ばれ、困難な状況に適切に対処する能力があり、成人後も社会的経済的地位も高く、就学年数も高いことがわかったという。
アイエンガー まず井上さんはともかく(笑)、ビル・ゲイツとスティーブ・ジョブズについて、マシュマロを食べてしまうタイプという判断を下せるのかどうかわかりません。もしかしたら、彼らなりにリスク解析をやって判断に至ったかも知れない。そして「HONZ専業問題」については、二つの視点から見ることができますね。ひとつは成毛さんの視点、もうひとつは井上さんの視点です。
まず井上さんにとって、大学院をやめるかやめないか、という判断は、合理的な熟慮のうえで下すべきものであって、感情で決めるべきものではない。きちんと成功の確率がどの程度なのか、計算をしなければならない。彼が(ゲイツとジョブズの)2例だけで判断しているのなら、ちょっとサンプル数が少なすぎます(笑)。理数系の考え方じゃないですね。「平均的な個人が修士号を持っていることの、生涯にわたる価値」を全部計算し、分析したうえで、やるだけの値打ちがあるのかどうかという判断をするべきですね。
成毛 とても彼にそんな複雑なことを計算する能力があるとも思えないので、やはり雇うのはやめておいたほうがいいでしょうか?(笑)
アイエンガー それはお二人で話して下さい。私は立ち入らないことにします(笑)。そして成毛さんの視点から判断すべきことですが、雇用する側としては、彼が、「やれ、といわれた仕事をきちんとやってくれる人かどうか」ということを計算をする必要があります。それから彼が修士号を持っているということがHONZの仕事に価値を提供するものかどうか、ということもね。
成毛 この『選択日記』を彼にしばらく書かせてみるのもいいかも知れませんね。
アイエンガー もちろん! それはとってもいいアイデアね(笑)きちんと「自分の選択」を考えるようになるかも知れません。
成毛 『選択日記』をつけさせて、その間は「学校は辞めるな」といい、なおかつHONZの仕事もさせることにしましょう。
アイエンガー それから、私のtwitterをフォローすることも忘れずに。アドバイスになること、いっぱいつぶやいていますよ(笑)。
ということで、さすがアイエンガー教授、日本の迷える若者の進路が決まりました。で、ここから業務連絡。とりあえず井上くんは@Sheena_Iyengarをフォローし、『選択日記』を買うこと。それから◯◯とXXと△△と★★をやっといてください。読者もお待ちかねのリニューアルにまつわる例の件もよろしく。それから学業も疎かにせず、ね。