ナンシー関が亡くなって10年になるという。正直、もうそんなに経つのかと少し驚いた。人が本当に亡くなるのはその人のことを誰も思い出さなくなった時だ、と何かの本で読んだことがあるが、もしそうならナンシーは未だに現役で私の心に生きている。年に何回かは、ワイドショウや週刊誌のタイトルを見て「ナンシーならなんていうだろう?」と考えてみる。そうすることで、大げさに言えば私の行動を一度冷静に見直すことになる。これで何度助かってきたことか。
『評伝ナンシー関』には期待していたのだが、著者と私ではナンシーの存在感が大きく違っているため、残念な気分になった。著者はナンシーが亡くなったことでその面白さを認識した。つまり亡くなっていることが大前提にある。しかし、私を含めて多くの人の心の中でナンシーはまだ生きている。言い換えれば、ナンシーがいたことを忘れられずにいる、という差だ。
亡くなった方の評伝を書く手法としては、この本は全く正しい。今まで存在を知らず、伝説や言い伝えに近い形でナンシーに辿りついた人が読めばかなりのところまで人物像に迫ることができるだろう。でもそれは乾燥フルーツから生の味を想像するようなものだ。
本書が論の中心に置いているテレビ時評は、その時の場の雰囲気や気配、流れ、言霊、経済状況などが相まって大いなる納得を得たのだ。稀有な言葉のセンスや洞察力で今読んでも面白いが、当時は比較にならないほどビンビンと届いた。
なんかさびしくなって、ナンシー最後のコラム集と銘打たれた『お宝発掘!ナンシー関』を読んだ。『評伝』にも書かれているように、ナンシーの著作を網羅し整理した世界文化社からの本なので、本当に最後なのだろう。デビュー作である1985年のホットドッグ・プレス『ナンシーの漢字一發!!』が読めるだけでもこの本は価値がある。
私が好きだった作品は、テレビ時評や人物評、世間の常識への反発のような毒を含むものではなく、『記憶スケッチアカデミー』や本書に収録されている『コンビニ・ジュース』のようなものだった。鋭い感性を遺憾なく発揮しながら、本人が自然体で書いているような気がする。多分、あのまま元気でいてくれたら、今頃は脱力系のエンターテインメント・ノンフィクションの書き手になっていたかもしれない。
享年39。本人は自分をまだ「駆け出し」だと思っていたのではないか。10年経てば人は大転換だって遂げる。AEDが今のように普及していたら、ナンシーの命は取り留めたかもしれないと思うと残念でならない。私の記憶が鮮明なうちは、評伝より本人か書いたものを読んで「それでいいのか、後悔はしないのか」と自らに問いかけたい。
ナンシーの追悼本として2003年に出た豪華本。当時は高いな、と思ったけれど、今じゃまぎれもないお宝本。絶版なのが悔しいが、こういうう本こそ電子書籍で出してほしい。