イエティ、ついにロシアで捕獲! - そんなニュースが飛びこんできたのは、年明け早々のことだった。しかも地元の動物園に運ばれており、公開予定もありと報道されていたように思う。さすがにこのニュースには胸が高鳴ったことを、昨日のことのように憶えている。
あくる日の動物園には、隣国のチェチェン共和国からも大量の人々が押し寄せたという。そこで観客たちが目にしたのは、なんと檻の中でゴリラの着ぐるみをまとった動物園職員の姿。これは世界中がズッコケた、寄付金目当てのロシアン・ジョークだったのである。
この一件からも明らかになったのは、いかに多くの人が雪男の存在を信じており、いかにこの手の情報が広まるのが早いかということでもある。そして、これら雪男の噂や情報には、須らく人の手が介在しているのだ。
一体イエティの何が、かくも人を魅了するのか?本書は、そんなイエティの真実に独特の角度から迫った一冊である。
舞台はヒマラヤ。熟練登山家でもある著者のスタンスは、やみくもにイエティという未確認動物を探し求めるのではなく、実在しようがしまいがそれは二の次という一風変わったものであった。重要なのは、イエティを見たという噂の範囲と地理的・文化的な関係についてであり、それが特定できれば自ずからイエティなるものの正体に迫ることができるのではないかと考えたのである。
ヒマラヤ周辺地域のどの範囲に雪男伝説は流布しているのか、そして、それはどういう経緯で伝播したのか ― 著者が現地を東西南北、縦横に歩き回った旅から得た事実は、雪男の言い伝えはチベット仏教が信仰されている地域と重なっている、ということであった。
この調査の過程で、著者はある結論に到達する。それは、雪男の実体がチベットヒグマではないかというものだ。きっかけは、シンプルな疑問が発端である。イエティの足跡があるのだから、現実にイエティは実在するのであり、現地住民によって昔から確認されているはずではないかと感じたのだ。
これを著者は、現地住民の生活、文化、宗教に注目することで一つ一つ紐解いていく。ネパール、クーンブ地方の僧院には、何者かによって盗難されてしまったものもあるのだが、今でも実際にイエティの頭皮や手の骨と思しきものが保管されている場所がいくつかあるのだ。
そこに赴き、出会った高僧にイエティの頭皮が野生動物の毛皮でつくられた人造品ではないかとカマをかけてみる。すると、高僧たちは否定しない代わりに大笑いするのである。バレたかと言わんばかりのリアクションに、著者は確信に近いものを得る。
別の地方に行った時には、さらに決定的な証拠を掴む。これがイエティの写真だと地元の人に見せてもらった図鑑に写っていたのはヒグマの写真。また後に、チベット周辺の村や日本に持ち込まれたイエティの足や毛皮を本格的に調査してみたところ、ヒグマのものであるという鑑定結果まで出てくるのだ。
しかし、これにて一件落着というわけにはいかない。日本の動物園でも見ることのできるチベットヒグマと、地元民の間で頭が尖っていると長らく語り継がれてきたイエティの相貌には、随分とギャップがあるのだ。
その要因の一つに、イエティの神格化ということが挙げられる。この地域には野獣のイエティを歴史的な高僧ラマ・サンガ・ドルジェが説伏するという説話が広まっている。その影響でチベット仏教徒には、イエティを姿の見えない足音や鳴き声だけの崇高な存在として畏れている実態もあるのだという。
この過程において、イエティは現実と虚像の入り混じった仮想現実の世界のものとして描かれ始めたのだ。もしかしたら、雪男の正体も、呪術的信仰世界、もしくは迷信が現世に同居しているのではないかと著者は考え始める。ちなみにラマ・サンガ・ドルジェとイエティの関係というのは、日本でいえば稲荷明神とキツネの関係だったり、山王権現とサルの関係のようなものをイメージしていただくと理解しやすい。
ここで、もう一つ大きな疑問が出てくる。それは、これまでに先進国から乗り込んできた数々の探検隊が、なぜこれらの事実に気が付くことが出来なかったのかということである。
イエティの実在を決定づけるかのような物的証拠として発表されたのが、1951年のE・シンプトンの撮影した写真である。それと同時に、ヒマラヤに住むシェルパという一少数民族の「イエティ」なる固有名詞が未確認動物として位置づけられ、空前の雪男ブームを巻き起こしたとされている。
ここで著者が注目したのは、エヴェレスト初登頂とイエティ、あるいは雪男の登場との関係である。ここに時期的な符合が見られることに、作為的なものを感じ取るのだ。
そして文献情報などを追いかけるうちに、重要な事実を発見する。世界的に高名な二人の登山家がヒマラヤの雪男に関する真実を封じ込め、マスコミを利用して騒動を煽り、エヴェレスト遠征隊の資金調達の手段にしていたということが書かれていたのだ。
この架空のロマンを追い求めて、これまで数々の探検隊が先進諸国から繰り出されてきたということなのだ。前近代の産物ともいえる迷信の世界を、近代精神に基づいて探検の対象にする。これでは、いくら探し続けても実体が見つかるわけもない。
この事実に対する著者の弁が、印象的だ。
「それとも知らずに、後世において冒険ロマンを追い求めた冒険者は、ことごとく茶番を演じたことになる。私もまさにその1人だった」
つまり著者の主張が事実だとするならば、イエティとは、近代と前近代という時代の狭間に産み出された落とし子のような存在だったのである。
また、地理的な側面にも狭間はある。イエティの呼称というのは地域によって様々だ。ブータンやシッキムでは「ミゲ」「ムギュ」、チベットの「ドクパ」と呼ばれる遊牧民は「テモ」、ごく一般的には「メテ」でも通用する。さらにネパールの少数民族、ライ族とリンブー族には「ソクプ」と呼ばれているそうだ。それぞれの地域の呼称ごとに文化的な結びつきがあり、その文化間の翻訳にまで至らなかったというところが実情だろう。
地元住民の生活や信仰に根ざしたイエティと、探検隊が探し求めたイエティの姿、この二つのイエティにおける構図の共通点にも、興味深いものがある。
まず動機や発想に差異があるにしても現実的には存在しないという意味において、両者は合致する。さらにヒマラヤ地域の発展途上にある国々で、この二つのイエティはないまぜになり、時代の観光路線と歩調を合わせ、いまではヒマラヤ観光のマスコット・キャラクターにもなっている。どちら側の立場にとっても都合のよい、集金装置として利用されてきたという側面においても両者は同じなのだ。
長年の調査を経て著者が下した結論には、夢がないと感じられる方も多いかもしれない。しかし、はたして本当にそうだろうか?イエティが浮き彫りにしたのは、時代や国を超えた人間の本質的な部分でもある。人は信じたいものを見てしまう生き物なのだ。
つまり、ドラえもんが猫であるということや、ミッキーマウスがねずみであるということが正しくもあり、間違ってもいるように、イエティがチベットヒグマであるということも正しくもあり、間違ってもいるということなのである。イエティとは近代と前近代、洋の東西が、全く偶然にも相似形を成して組み合わさった、奇跡的なスペクタクルであったのだ。
雪男の足跡から始まった壮大な物語。本書で描かれているのは、そこに夢を見た者たちの足跡そのものである。
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