徒然草ではないが「すこしの事にも先達はあらまほしきこと」なのである。日々の生活、最後は自分で納得して決断していかなければならないけれど、迷ったり悩んだりした時は、つい誰かに教えてもらいたくなる。誰にたずねることができるか、で、その人の人生は大きくかわっていくだろう。かつて、開高健は『風に訊け』という連載で、多くの若者の人生に見事な指南を与えていた。三戸サツヱさんのこの本、さしずめ、「生き方はサルに訊け」とでも諭されているような内容である。
2012年4月8日、三戸サツヱさんが亡くなったことを伝える朝日新聞の記事は意外なほど大きかった。かなり高名な教授であっても、高齢で亡くなられた場合には、死亡記事は決して大きくはない。しかし、97歳でみまかられた宮崎県・幸島の「サルおばさん」の記事は、死亡欄でのあつかいであったとはいえ、写真入りの立派なものであった。三戸さんは小学校の先生をしながら幸島でサルの観察をはじめ、定年後は京都大学霊長類研究所・付属幸島野外観察施設の研究員として勤められた方である。その経歴ではなく、そのなされたことの大きさが、その記事のサイズにあらわれているのだ。
三戸さんの名前をしらなくても、幸島で、エサとしてサツマイモを与えられたニホンザルが海水で洗うことを思いつき、その「イモ洗い」が「文化」として群に伝播していったことを知っている人は多いだろう。その行動を最初に観察・記録されたのが三戸さんなのである。他にも、数多くの発見をされ、日本のサル学において大きな貢献をもたらされた。その三戸さんの「サルと私の六十五年」を聞き書きという形でまとめたのが、この「サルたちの遺言」である。
この本は、しかし、実際にインタビューをまとめたものではない。三戸さんの著作などをもとに、聞き書きという形式に、いわばバーチャルにまとめたものである。なんだそうか、と言うなかれ。その構成は、聞き書き編集の名手、「悠玄亭玉介 幇間の遺言」や「のり平のパーッといきましょう」で、最後の太鼓持ちといわれた悠玄亭玉介の芸と思想を、そして、三木のり平のただものではない人生を、みごとなまでに面白い本に仕立て上げた小田豊二氏なのであるから。
脳梗塞から甦られた三戸さんが、生活する施設で、ある日「サルの話、していいですかあ!」と大きな声で言われた、お年寄りの話を聞き書きして後生に残す運動を十年来しておられる小田氏に白羽の矢がたった。しかし、残念ながらもう十分な聞き取りはできる状態ではなかった。そこで、これまでの著作から、聞き取りという形式で一冊の本にまとめようということになったのである。
さすが名手、話は実にビビッドに構成されている。イモ洗いを始めた娘ザル「イモ」のこと。「イモ」を産んだ「エバ」をはじめとする名門秀才家系のこと。死んだ子をひからびても放さなかったメスのボスザル「ウツボ」のこと。何匹かのメスザルは人間を好きになったが、そのすべてが若い研究者だけであったこと。幸島へ渡ろうとして水難事故で亡くなった若き研究者のこと。そして、自分の生い立ちのこと。
しかし、なんといっても面白いのは「仁義なき戦い」もかくやというほどの、サルたちの権力闘争、「ボスザル」として君臨した「カミナリ」とその高級幹部であった「アカキン」たちを巡る物語である。最近の研究では、群におけるサルの順位というのは、「餌付け」という特殊な状況でのみ観察されるものであって、かならずしも通常状態で認められるものではない、とされているようだが、面白いものは面白いのである。すべてのサルの話が、そこまでと言いたくなるほど、実に愛情たっぷりに語られる。
サルたちの行動について、擬人化されすぎた書き方が気になる人もいるかもしれない。高校生時代、幸島のサル研究をふくむ本を読みあさり、その「人間らしさ」にひかれて真剣にサル学を志そうと思ったことのある私ですら、少し気になったほどである。しかし、一枚の写真を見て、私が間違えていることがわかった。長年にわたり群をおさめた「カミナリ」晩年の顔。それは、思慮深い長老、という以外の形容が思い当たらない、じつに落ち着いた深みのあるものである。この本を読まずとも、その写真だけでも見てほしい。
巻末の三戸さんの紹介文の最後には「本書刊行の2012年、満98歳になった」とある。残念ながら、その二週間前、三戸さんは鬼籍にはいられた。「サルたちの遺言」として書かれたこの本が、「そうですね。私は、人生のことはサルから学びましたよ。」という三戸サツヱさんの遺言になってしまったのは少し残念だ。でも、いまごろきっと天国で、先に逝ったたくさんの幸島のサルたちに囲まれて暮らしておられることでしょう。合掌。
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こんな面白い本が絶版か…
ある種の文化財だと思うけれど。再版を強く希望。
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「聞き書き」には無限の可能性があるのではないかと思わせてくれる最近話題の一冊。
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開高健が生きてたら、今の時代にどんな指南を与えてくれるだろうか。
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ほんとは『ジェーン・グドール自伝』をあげたかったけれど、絶版なのでこちらを。
チンパンジーの道具使用を発見した研究者であるグドールも、正規の動物学教育をうけていない女性研究者。
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チンパンジーつながりでもう一冊。グドールのお友だち、チンパンジーのアイちゃんのお父さん(?)である松沢哲郎先生の本。京大霊長研関係の本はどれも面白い。